『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。
▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。
▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほうを。面白そうな魏紀の部分だけを今回は紹介します。夏紀・殷紀・周紀・晋紀については、またの機会があればやりましょう。面倒くさいので注釈とかは省きます。どこの文献から引用されたかは、いちおうつけました。
▽「三晋」は趙・魏・韓の三国。「梁」は魏のこと。「邯鄲」は趙のこと。「鄭」はほぼ韓のことですが、一部に春秋の鄭や地名としての新鄭を指しているところがあります。
▽襄王十二年の「疾西風」の解釈は諸説あるので、無理に訳さず、放置しました。「疾」は「樗里疾」のことという説もあります。
▽魏の歴史書なので、魏からみた視点で書かれているのは言うまでもなく。
▽『史記』魏世家と読み合わせてみるのをオススメします。
▽『史記』の記述と異なる諸侯の号とか、六国年表と異なる紀年とかを楽しむのが乙です。では。

 

『古本竹書紀年』魏紀

  〔燕の〕簡公が立って十三年、三晋が邑に冊命されて諸侯となった。史記索隠』燕世家

 斉の康公五年、田侯午が生まれた。史記索隠』田敬仲完世家

 〔魏の文侯が〕五十年にして卒去した。史記索隠』魏世家

 〔魏の〕武侯元年、公子緩を封じた。史記索隠』魏世家

 魏の武侯元年は、趙の烈侯の十四年に当たる。史記索隠』魏世家

 〔秦の〕敬公が立って、十二年で卒去し、そこで恵公を立てた。史記索隠』秦本紀 〔秦の〕敬公が立って十三年、そこで恵公にいたった。史記索隠』秦始皇本紀

 〔晋の〕孝公を桓公とした。史記索隠』晋世家

 〔魏の武侯〕十一年、洛陰および安邑・王垣に築城した。史記索隠』魏世家

 〔宋の〕悼公が十八年で卒去した。史記索隠』宋世家

 〔斉の康公〕二十二年、田侯剡が立った。史記索隠』田敬仲完世家

 翳の三十三年、呉に遷都した。史記索隠』越世家

 高邑県は、趙魴子の邑である。『太平御覧』巻一六一郡部所引『十道志』

 〔粵子翳の〕三十六年七月、太子諸咎がその君翳を弑した。十月、粵は諸咎粵滑を殺し、呉の人は孚錯枝を立てて君とした。史記索隠』越世家

 明年、大夫寺区が粵の乱を定め、初無余之を立てた。史記索隠』越世家

 魏の武侯の二十一年、韓が鄭を滅ぼし、哀侯が鄭に入った。史記索隠』韓世家

 晋の桓公が哀侯を鄭に邑させた。韓山堅がその君哀侯を賊し、韓若山を立てた。史記索隠』韓世家

 〔魏の武侯の〕二十二年、晋の桓公が哀侯を鄭に邑させた。史記索隠』韓世家

 韓の哀侯と趙の敬侯がそろって〔晋の〕桓公の十五年に卒去した。史記索隠』晋世家

 後十年、斉の田午がその君と孺子喜を弑して公となった。史記索隠』田敬仲完世家

 〔宋の〕桓侯璧兵が立った。史記索隠』宋世家

 魏の武侯は〔晋の〕桓公十九年に卒去した。史記索隠』晋世家

 武侯は二十六年で卒去した。史記索隠』魏世家

 〔燕の〕簡公は四十五年で卒去した。史記索隠』燕世家

 梁の恵成王元年、韓の共侯と趙の成侯が晋の桓公を屯留に遷した。『水経注』濁漳水 〔晋の〕桓公二十年、趙の成侯と韓の共侯が桓公を屯留に遷した。以後、新たな晋の記事はなかった。史記索隠』晋世家

 恵成王元年、昼が暗かった。『開元占経』巻一〇一

 七(年)〔月〕、公子緩が邯鄲に行って難をなした。史記索隠』魏世家

 梁の恵成王元年、趙の成侯偃と韓の懿侯若が我が葵を伐った。『水経注』沁水

 趙侯種と韓の懿侯が我を伐ち、蔡を取った。そこで恵成王は趙を伐って、濁沢を包囲した。史記索隠』魏世家

 梁の恵成王元年、鄴の軍が邯鄲の軍を平陽で破った。『水経注』濁漳水 梁の恵成王が邯鄲の軍を平陽で破った。『太平寰宇記』巻五五相州臨漳県

 梁の恵成王二年、斉の田寿が軍を率いて趙を伐ち、観を包囲すると、観は降った。『水経注』河水

 恵王二年、魏の大夫王錯が韓に出奔した。史記集解』魏世家所引徐広

 梁の恵成王三年、鄭が邢丘に築城した。『水経注』済水

 梁の恵成王三年、秦子向が冊命されて藍君となった。『水経注』渭水 恵王が秦子向を冊命して藍田君とした。『太平寰宇記』巻二六雍州田県 梁の恵成王が太子向を冊命して藍田君とした。長安志』巻一六藍田県

 梁の恵成王四年、河水が龍門で三日赤くなった。『水経注』河水

 梁の恵成王五年、公子景賈が軍を率いて鄭を伐ち、韓明が陽で戦うと、我が軍は逋沢の北で敗北した。『水経注』済水

 梁の恵成王六年四月甲寅、邦を大梁に徙した。『水経注』渠水 梁の恵王九年四月甲寅、都を大梁に徙した。史記集解』魏世家 恵王の六年、安邑より大梁に遷った。漢書注』高帝紀 『紀年』は恵王九年とする。史記索隠』魏世家 梁の恵成王九年四月甲寅、都を大梁に徙した。孟子正義』梁恵王上

 梁の恵王が逢忌の藪を発して民に賜った。漢書注』地理志、『輿地広記』巻五東京開封 梁の恵王が逢忌の藪を廃して民に賜った。『春秋左伝正義』哀公十四年『太平御覧』巻一五八州郡部

 斉の桓公十一年、その君母を弑した。史記索隠』田敬仲完世家所引王劭

 十二年、寺区の弟の思がその君莽安を弑し、次に無顓を立てた。史記索隠』越世家

 恵成王七年、雨が郢で緑色になった。『太平御覧』巻八〇九珍宝部『広韻注』巻五昔

 梁の恵成王七年、地が突然に長さ十丈あまり、高さ一尺半隆起した。『太平御覧』巻八八〇咎徴部

 梁の恵成王八年、恵成王が邯鄲を伐ち、列人を取った。『水経注』濁漳水

 梁の恵成王八年、邯鄲を伐ち、肥を取った。『水経注』濁漳水

 恵成王八年、黍に雨が降った。『太平御覧』巻八四二百穀部

 梁の恵成王九年、邯鄲に楡次・陽邑を与えた。『水経注』洞過水

 梁の恵王九年、晋が泫氏を取った。『太平御覧』巻一六三州郡部 梁の恵王九年、晋が泫氏県を取った。『太平寰宇記』巻四四沢州高平県

 梁の恵成王九年、王が鄭の釐侯と巫沙で会した。『水経注』済水

 梁の恵成王十年、河水を甫田に入れ、さらに大溝をつくって甫水を引いた。『水経注』渠水

 梁の恵成王十年、瑕陽の人が秦より岷山の青衣水を通って帰順してきた。『水経注』青衣水

 東周の恵公傑が薨去した。史記集解』六国年表所引徐広

 秦軍が鄭を伐ち、懐に宿営し、殷に築城した。『水経注』沁水 秦軍が鄭を伐ち、懐・殷にいたった。『太平寰宇記』巻五四三懐州

 梁の恵成王十二年、龍賈が軍を率いて西辺に長城を築いた。『水経注』済水

 梁の恵成王十二年、楚軍が河水に進出して長垣の外を水浸しにした。『水経注』河水

 梁の恵成王十二年、鄭が屯留・尚子・涅を取った。『水経注』濁漳水 梁の恵王十二年、鄭が屯留・尚子を取った。つまり長子の地である。『太平御覧』巻一六三州郡部 梁の恵成王十二年、鄭が屯留・長子を取った。『太平寰宇記』巻四五潞州長子県

 梁の恵成王十三年、鄭の釐侯が許息を使者として土地を交換しにやってきた。平丘・戶牖・首垣の諸邑と鄭の馳地である。我は枳道を取り、鹿を鄭に与えた。『水経注』河水

 恵成王十三年、王と鄭の釐侯が巫沙に盟し、宅陽の包囲を解き、釐侯を鄭に帰させた。『水経注』済水

 斉の(幽)〔桓〕公の十八年に威王が立った。史記索隠』魏世家 梁の恵王十三年は、斉の桓公十八年に当たり、後に威王の治世が始まった。史記索隠』田敬仲完世家

 魯の恭侯・宋の桓侯・衛の成侯・鄭の釐侯が来朝した。みな十四年のことである。史記索隠』魏世家

 〔越の〕無顓が八年で薨去し、これを菼蠋卯とした。史記索隠』越世家

 魯の共侯が来朝した。邯鄲の成侯が燕の成侯と安邑で会した。史記集解』六国年表所引徐広

 恵王十五年、将の龍賈を派遣して陽池に築城させ秦に備えさせた。『元和郡県図志』巻八鄭州原武県 梁の恵王十五年、将の龍賈を派遣して陽池に築城させ秦に備えさせた。『太平寰宇記』巻一〇鄭州原武県

 〔亥谷より以南は鄭が築城したところだが、〕これは梁の恵成王十五年に築いたものである。『水経注』済水

 梁の恵成王十六年、秦の公孫壮が軍を率いて鄭を伐ち、焦城を包囲したが、勝てなかった。『水経注』渠水

 梁の恵成王十六年、秦の公孫壮が軍を率いて上枳・安陵・山氏に築城した。『水経注』渠水

 梁の恵成王十六年、邯鄲が衛を伐ち、漆・富丘を取り、ここに築城した。『水経注』済水

 梁の恵成王十六年、斉軍が燕と泃水で戦い、斉軍は逃走した。『水経注』鮑丘水

 恵成王十六年、邯鄲が四たび暗くなり、室が壊れて多くが死んだ。『開元占経』巻一〇一

 梁の恵成王十七年、宋の景敾と衛の公孫倉が斉軍と合流して、我が襄陵を包囲した。『水経注』淮水

 梁の恵成王十七年、斉の田期が我が東鄙を伐ち、桂陽に戦い、我が軍は敗れた。『水経注』済水 『紀年』はこれを徐州子期という。史記索隠』田敬仲完世家 梁の恵王十七年、斉の田忌が桂陵に梁を破った。史記索隠』孫子呉起列伝所引王劭

 梁の恵成王十七年、東周が鄭に高都と利を与えた。『水経注』伊水

 宋の剔城肝がその君璧を廃して自ら立った。史記索隠』宋世家所引王劭

 梁の恵成王十七年、鄭の釐侯が中陽に来朝した。『水経注』渠水

 恵成王十七年、一羽の鶴が郢の市で三たび翔んだ。唐写本『修文殿御覧』残巻

 「姬」はまた「玘」と作る。史記索隠』韓世家

 十八年、恵成王は韓軍に諸侯の軍を襄陵で撃破させた。斉侯は楚の景舎を使者として派遣して講和を求めさせた。公は斉・宋の包囲に合流した。『水経注』淮水

 梁の恵成王十九年、晋は玄武・濩沢を取った。『水経注』沁水

 梁の恵成王二十年、斉は長城をつくって防備を築いた。『水経注』汶水 梁の恵王二十年、斉の閔王は長城をつくって防備を築いた。史記正義』蘇秦列伝

 衛の将軍文子が子南彌牟となり、その後に子南固と子南勁があった。子南勁は魏に朝事し、後に恵成王が衛に行くと、子南を冊命して侯とした。漢書注』武帝紀所引臣瓚、『水経注』汝水、『史記集解』周本紀

 魏の殷臣と趙の公孫裒が燕を伐ち、帰国すると、夏屋を取り、曲逆に築城した。『水経注』滱水

 壬寅、孫何が楚に侵入し、三戸郛に入った。『水経注』丹水

 粵子無顓が薨去し、十年後に楚が徐州を伐った。史記索隠』越世家

 魏章が軍を率いて鄭の軍とともに楚を伐ち、上蔡を取った。『水経注』汝水

 孫何が㶏陽を取った。『水経注』潁水

 梁の恵成王二十五年、絳中に地割れが起こり、西方の汾との交通が遮断された。『水経注』汾水

 秦の孝公が諸侯と逢沢で会した。『水経』渠水注、『史記』六国年表集解

 二十八年、斉の田朌と馬陵に戦った。史記索隠』魏世家 威王十四年、田朌が梁を伐ち、馬陵に戦った。史記索隠』田敬仲完世家 〔梁恵王〕二十七年十二月、斉の田朌が梁を馬陵に破った。史記索隠』孫子呉起列伝所引王劭

 梁の恵成王二十八年、穰疵が軍を率いて及鄭の孔夜と梁赫で戦い、鄭軍が敗北した。『水経注』渠水

 二十九年五月、斉の田朌が我が東鄙を伐った。九月、秦の衛鞅が我が西鄙を伐った。十月、邯鄲が我が北鄙を伐った。王は衛鞅を攻めて、我が軍は敗北した。史記索隠』魏世家 梁の恵成王二十九年、斉の田朌が宋人とともに我が東鄙を伐ち、平陽を包囲した。『水経注』泗水 梁の恵王二十九年、秦の衛鞅が梁の西鄙を伐った。史記索隠』商君列伝

 梁の恵成王三十年、済陽に築城した。『水経注』済水

 梁の恵成王三十年、秦が衛鞅を鄔に封じ、名を改めて商といった。『水経注』濁漳水 衛鞅を鄡に封じた。後漢書注』光武帝 秦は商鞅を恵文王三十年に封じた。史記索隠』商君列伝

 梁の恵成王三十一年三月、北郛に大溝をつくり、圃田の水を行きわたらせた。『水経注』渠水 恵王は北郛に大溝をつくり、圃田の水を行きわたらせた。『輿地広記』巻五東京祥符県

 梁の恵成王三十一年、邳が薛に遷り、徐州と名を改めた。『水経注』泗水 梁の恵王三十一年、下邳が薛に遷り、名を改めて徐州といった。史記索隠』魯世家 梁恵王三十一年、下邳が薛に遷り、徐州と名を改めた。史記正義』孟嘗君列伝

 〔秦が〕魏と岸門に戦った。史記索隠』秦本紀

 秦蘇胡が軍を率いて鄭を伐ち、韓襄が秦蘇胡を酸水で破った。『水経注』済水

 恵王は三十六年して改元し、一年より始め、十六年にいたって恵成王は卒去したという。春秋経伝集解後序』 魏の恵王にまた後元あり。史記索隠』孝文本紀 恵成王が立って三十六年、改元して一年を称し、改元後十七年に卒去した。史記集解』魏世家 恵成王三十六年、改元して一年を称したが、まだ卒去していなかった。史記索隠』魏世家 恵成王三十六年、また後元一を称し、十七年に卒去した。史記索隠』魏世家 このとき梁の恵王は改元して一年を称したが、まだ卒去していなかった。史記索隠』田敬仲完世家 梁恵王二十八年に当たる。三十六年にいたって改めて後元とした。史記索隠』孟嘗君列伝 魏の恵成王三十六年、改元して一年と称した。『通鑑外紀』巻二

 鄭の昭侯武が薨去し、次に威侯が立った。史記索隠』韓世家

 韓の昭侯の世には、兵寇がしばしば交えられた。史記索隠』申不害列伝所引王劭

 斉軍が趙の東鄙を伐ち、中牟を包囲した。『水経注』渠水、『史記集解』趙世家、『春秋左伝正義』定公九年

 〔鄭の〕威侯七年、邯鄲とともに襄陵を包囲した。五月、梁の恵王は威侯と巫沙で会した。十月、鄭の宣王が梁に朝した。史記索隠』韓世家

 〔衛の〕嗣君はつまり孝襄侯である。史記索隠』衛世家所引楽資

 十年、斉の田肸が邯鄲や韓挙と平邑で戦い、邯鄲の軍を敗北させ、韓挙を捕らえ、平邑・新城を取った。『水経注』河水 〔韓挙は、趙の将である。〕その敗北は韓の威王八年に当たる。史記索隠』韓世家

 恵王の後元十一年に当たり、「平阿」と作る。史記索隠』孟嘗君列伝

 〔梁の恵王〕後元十三年、斉の威王と鄄で会した。史記索隠』孟嘗君列伝

 梁の恵王後元十三年四月、斉の威王が田嬰を薛に封じた。十月、斉が薛に築城した。……田嬰が初めて彭城に封じられた。史記索隠』孟嘗君列伝

 〔梁の恵王後元〕十四年、薛子嬰来朝。史記索隠』孟嘗君列伝

 〔梁の恵王後元〕十五年、斉の威王が薨去した。史記索隠』孟嘗君列伝

 燕人が趙を伐ち、濁鹿を包囲した。趙の武霊王と代人は濁鹿を救援して、燕軍を勺梁で破った。『水経注』滱水

 十六年にいたって恵成王は卒去したという。春秋経伝集解後序』

 鄭侯が韓辰を使者として晋陽と向を返還した。二月、陽と向に築城した。名を改めて陽を河雍とし、向を高平とした。『水経注』済水 魏の哀王四年、宜〔晋〕陽を改めて河雍といい、向を改めて高平といった。史記』秦本紀集解所引徐広 魏の哀王四年、陽を改めて河雍といい、向を高平といった。史記』趙世家集解所引徐広 鄭侯が辰を使者として晋陽と向を返還し、高平と名を改めた。史記正義』范睢列伝所引『括地志』

 今王四年、碧陽君の諸御が二龍を産んだ。『開元占経』巻一一三

 〔燕の〕子之が公子平を殺した。史記索隠』燕世家

 斉の人が子之を捕らえてその身を塩漬けにした。史記集解』燕世家

 燕の公子職が立った。史記集解』六国年表所引徐広

 周の隠王二年、斉の地が突然隆起した。長さ一丈あまり、高さ一尺。『太平御覧』巻八八〇咎徴部

 ここにおいてさらに楚の景翠を説いて雍氏を包囲した。韓の宣王が卒去した。秦は韓を助けてともに楚の屈丐を破った。さらに斉と宋が煮棗を包囲したという。史記集解』韓世家所引徐広

 〔斉の〕宣王八年、王后を殺した。史記索隠』田敬仲完世家所引王劭

 襄王七年、韓明が軍を率いて襄丘を伐った。『水経注』済水

 魏の襄王七年、秦王がやってきて蒲坂関で会合した。四月、越王が公師隅を使者として舟に乗ってやってこさせ、始めて網や三百隻の舟や五百万本の矢や犀の角や象牙を献上した。『水経注』河水

 〔秦の〕褚里疾が蒲を包囲したが、勝てなかった。そして秦の恵王が薨去した。史記索隠』樗里子列伝

 八年、翟章が衛を伐った。史記索隠』魏世家

 魏の襄王九年、上洛して成周に入り、山水を大いに観遊した。『水経注』洛水

 〔張儀は〕梁の安僖王九年五月に卒去した。史記索隠』張儀列伝

 〔襄王〕十年、楚の庶章が軍を率い来たって我と合流し、襄丘に宿営した。『水経注』済水

 魏の襄王十年十月、大霖雨と疾風があり、河水が酸棗の外郭で溢れた。『水経注』済水

 魏の襄王十二年、秦の公孫爰が軍を率いて我を伐ち、皮氏を包囲した。翟章が軍を率いて皮氏を包囲から救援した。疾西風。『水経注』汾水

 〔魏の襄王〕十三年、皮氏に築城した。『水経注』汾水

 秦に内乱があり、その太后と公子雍・公子壮が殺された。史記索隠』穰侯列伝

 楚の吾得が軍を率いて秦とともに鄭を伐ち、綸氏を包囲した。『水経注』伊水 楚が秦とともに鄭の綸氏を伐った。後漢書注』黄瓊伝 楚が秦とともに鄭の綸氏を伐ち、綸氏を包囲した。『太平寰宇記』巻四西京潁陽県

 翟章が鄭を救援し、南屈に宿営した。『水経注』河水、『漢書注』地理志所引臣瓚、『太平寰宇記』巻四八慈州

 〔哀王〕十六年、秦が我が蒲阪・晋陽・封谷を抜いた。史記索隠』魏世家

 魏の襄王十七年、邯鄲が吏・大夫・奴に命じて九原に遷させ、さらに将軍・大夫・適子・戍吏に命じてみな貉服を着用させた。『水経注』河水

 魏は山塞を救おうと、胥口に集まった。史記集解』蘇秦列伝所引徐広

 魏の襄王十九年、薛侯が来朝し、王と釜丘で会談した。『水経注』済水

 ここにおいてまた楚を説いて雍氏に入らせると、楚人は敗れた。史記集解』韓世家所引徐広

 下っては魏の哀王の二十年にいたる。……哀王は二十三年に卒去したため、特に諡を称さず、これを今王という。春秋経伝集解後序』 『汲冢紀年』を調べると哀王二十年に終わっている。史記索隠』魏世家