長安の植物園

 扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(アクイラリア・シネンシス)と指甲花(ホウセンカ)が百本あった。龍眼(リュウガン)・荔枝(レイシ)・檳榔(ビンロウ)・橄欖(カンラン)・千歳子(フジ属)・柑橘(ミカン属)はそれぞれ百本あった。気候が南北で異なるため、歳時を経ると多くは枯れてしまった。荔枝については交趾から百株を庭に移植し、ひとつも生えるものがなかったが、連年移植してやめなかった。数年後、たまたま一株がいくらか成長し、花や実をつけることはなかったが、武帝はこれを大切にした。ある朝に枯死し、守吏で連座して処刑される者が数十人におよんで、再び蒔かれることはなかった。歳貢によって庭園は維持されたが、植物を運ぶ者がたびたび道中で過労死し、民衆の苦難の種になっていた。後漢の安帝のときにいたって、交趾郡守の唐羌がその弊害を上奏して、ようやく奇草異木の歳貢は廃止された。(『三輔黄図』巻3) 

 

 なお、扶荔宮は上林苑の中にあったとする『三輔黄図』の記述は誤りで、実際には左馮翊夏陽県(現在の陝西省韓城市芝川鎮の南)にあったらしい。