周鼎泗水伝説

 『春秋左氏伝』宣公三年に「楚子伐陸渾之戎,遂至于雒。觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉」(楚の荘王が陸渾の戎を伐ち、雒にまでいたった。周の疆域で兵を観閲した。周の定王は王孫満を派遣して荘王を労わせた。荘王は周の鼎の大小軽重を王孫満に訊ねた)とある。紀元前606年のことで、「鼎の軽重を問う」の故事で今も知られるところである。洛邑(洛陽)に周の九鼎があることは当時よく知られていた。

 『史記』周本紀によると、周の武王が南宮括と史佚に命じて九鼎宝玉をうつさせたというから、もしこれを信じるなら前11世紀から周の九鼎はあったことになる。周の成王は武王の遺志を継いで召公奭に命じて洛邑を造営させた。周公旦は卜で占って、洛邑の造営を終えると、九鼎をここに安置した。定王元年条には、楚の荘王が洛に宿営し、使者を派遣して九鼎を問わせたことがみえる。威烈王二十三年条には、九鼎が震え、韓・魏・趙に命じて諸侯としたとある。晋の三分に先立って「九鼎震」を記録するのは、凶兆とみなされたからだろう。王赧四十二年条では、秦が華陽の約を破ったため、馬犯が九鼎と引き換えに梁王(魏の安釐王)の救援を求めている。梁王は応諾して兵を派遣して周を守らせたというから、九鼎は魏に移されたのだろうか。しかし九鼎は魏には移されなかったようだ。王赧五十九年条には、王赧が死去すると、秦が九鼎宝器を奪取したというのである。『史記』秦本紀昭襄王五十二年条に「周民東亡,其器九鼎入秦」とあり、九鼎の秦による奪取を裏付ける。

 『史記』秦始皇本紀始皇二十八年条には、「始皇還,過彭城,欲出周鼎泗水。使千人沒水求之,弗得」(始皇帝は巡幸の帰路に彭城を通過し、泗水から周鼎を出そうとした。千人を動員して水に潜らせてこれを求めたが、得ることはできなかった)とある。いつのまにか周鼎は泗水に沈んでいたことにされている。泗水は洛陽からみて東方にあり、洛陽から秦都咸陽に運ぶ途中に沈んだというような事情は考えられない。また洛陽から魏都大梁に運ぼうとして沈んだという事情も考えられない。泗水は大梁からもさらに東である。

 史記三家注のひとつ『史記正義』はこの矛盾を「秦昭王取九鼎,其一飛入泗水,餘八入於秦中」(秦の昭王が九鼎を取り、そのうちのひとつが飛んで泗水に入り、残りの八個は秦中に入った)と説明するが、洛陽と泗水の距離を考えれば飛んで入るのは荒唐無稽すぎる。周の滅亡のどさくさに周鼎のひとつを東方に避難させようとして泗水に沈んだとするなら、もう少し合理的な説明になるが、どこに避難させようとして泗水に沈んだのだろう。泗水の先に有力な諸侯はおらず、考えにくい。泗水は漢の高祖劉邦の初期の根拠地であった沛県を通っており、周鼎泗水伝説は漢の高祖の出自を潤色するために作られた話のひとつと考えるほうがまだしもだろう。

 『漢書』郊祀志上に望気者の新垣平の言葉として「周鼎亡在泗水中,今河決通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎」(周鼎は泗水の中に没しておりましたが、今は黄河が決壊して泗水と通じており、臣が望気したところ東北の汾陰県のそばに金宝の気があります。思うに周鼎がそこから出るということでしょう)とある。新垣平はのちに人を欺して玉杯を献上し、それが発覚して処刑された。詐欺師的人物の言葉であるにも関わらず、周鼎が汾陰県に移ったという話は信じられたようである。
 『漢書』吾丘寿王伝によると、汾陰県で宝鼎を得て漢の武帝に献上され、群臣が「陛下が周鼎を得た」と口々に賞賛するなか、吾丘寿王はひとり「周鼎ではない」と主張した。武帝が寿王の発言を聞き捨てならないものと追及すると、寿王は周の徳に応じて出たのが周鼎であって、漢の徳に応じて出たものであるから漢鼎であるといって丸め込んだ。
 周鼎泗水伝説がそもそも漢王朝の権威づけのために作られたものであるなら、汾陰県の宝鼎を漢鼎であると喝破した吾丘寿王は表面的に上手いことを言っただけに留まらないかもしれない。