魯国の中の魯国

史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績は樊噲に匹敵したといい、高祖劉邦の功臣としては7位に列せられている。奚涓には男子がいなかったため、母の疵(底)が魯侯に封じられた。

というようなあたりは、てぃーえすさんがとっくに言及していて、劉疵墓との関係まで言及されていたりするわけだが。
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さてさて、『漢書』地理志下の魯国の節に「もとの秦の薛郡が高后元年に魯国になった」と割注があり、『漢書』高恵高后文功臣表に「高后二年、(宣平)侯(張)偃が魯王になった」とある。高后元年(紀元前187年)だか高后二年(紀元前186年)だかに、張敖と魯元公主の子の張偃が魯王となり、魯国が成立していることになる。

史記』高祖功臣侯者年表によると、奚涓の母の疵は高后五年(紀元前183年)に死去しているので、張偃の魯王国と疵の魯侯国が併存していた期間があることになる。もちろん張偃の魯王国は郡クラスの王国であり、疵の魯侯国は県クラスの侯国であるので、併存そのものに問題があるわけではない。ただ魯国の中に魯国がある入れ子構造は、漢代郡国制下に発生した面白現象であるなあと、感嘆きわみないわけである。後世の史料に魯郡魯県を見ても何も面白くないので、神は細部に宿るのである。