法琳が「唐の李氏は拓跋達闍の子孫」と言ったとき、太宗が怒らなかった?

最近はTwitterなどで真偽定かならぬ情報の「拡散」がこわいご時勢のようです。と前置きして大した話ではないのですが、ちょっと気になった情報について一言。

http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200606-001&kiji_id=00247
初唐の廃仏論争がおきた時、高名なる仏僧の法琳が、太宗の面前にて道士との公開討論のさい、堂々と唐の李氏、鮮卑拓跋出の論をぶった時、太宗李世民がこれを咎めもせず、また怒りもせずにこれを黙って聞いていたという逸話

http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/reply.php?forum=1&post_id=139221&topic_id=2024&viewmode=flat&order=
初唐の廃仏論争がおきた時、高名なる仏僧の法琳が、太宗(李世民)に唐の李氏、鮮卑拓跋出の論
北魏武仙鎮八桂国出身をぶった時、太宗李世民が沈黙したとの逸話

http://www2.accsnet.ne.jp/~kiiwako/bbslog/bbslog37.html
初唐の廃仏論争がおきた時、高名なる仏僧の法琳が太宗の面前にて、
道士との公開討論のさい、「堂々と唐の李氏、拓跋出の論陣を張った」
 そして太宗が激怒もせず、それを聞いていた、との逸話

完全に同一なコピペではないのですが、ほぼ同趣旨の書きこみがあちこちにあるようです。

さて、法琳の伝記は『続高僧伝』にあるのですが…。

『續高僧傳』巻二十四
釋法琳。姓陳氏。穎川人。遠祖隨宦寓居襄陽。少出家。遊獵儒釋博綜詞義。金陵楚郢從道問津。自文苑才林靡不尋造。而意存綱梗不營浮綺。野栖木食於青溪等山。晝則承誨佛經。夜則吟覽俗典。故於內外詞旨經緯遺文。精會所歸咸肆其抱。而風韻閑雅韜德潛形。氣揚采飛方陳神略。隋季承亂。入關觀化。流離八水顧步三秦。每以槐里仙宗互陳名實。昔在荊楚梗概其文。而祕法奇章猶未探括。自非同其形服塵其本情。方可體彼宗師靜茲紛結。乃權捨法服長髮多年。外統儒門內希聃術。遂以義寧初歲。假被巾褐從其居館。琳素通莊老談吐清奇。道侶服其精華。膜拜而從遊處。情契莫二共敘金蘭。故彼所禁文詞。並用諮琳取決。致令李宗奉釋之典包舉具舒。張偽葛妄之言詮題品錄。武德初運還蒞釋宗。擁帙延光栖惶問道。以帝壤同歸名教。是則鼓言鄭衛易可箴規。乃住京師濟法寺。至武德四年。有太史令傅奕。先是黃巾深忌佛法。上廢佛法事十有一條。云釋經誕妄言妖事隱。損國破家未聞益世。請胡佛邪教退還天竺。凡是沙門放歸桑梓。則家國昌大。李孔之教行焉。武皇容其小辯。朝輔未能抗也。時謂遵其邪逕通廢宏衢。莫不懼焉。乃下詔問曰。棄父母之鬚髮。去君臣之章服。利在何門之中。益在何情之外。損益二宜請動妙適。琳憤激傅詞側聽明敕。承有斯問。即陳對曰。琳聞至道絕言。豈九流能辯。法身無象非十翼所詮。但四趣茫茫漂淪欲海。三界蠢蠢顛墜邪山。諸子迷以自焚。凡夫溺而不出。大聖為之興世。至人所以降靈。遂開解脫之門。示以安隱之路。於是中天王種辭恩愛而出家。東夏貴遊厭榮華而入道。誓出二種生死。志求一妙涅槃。弘善以報四恩。立德以資三有。此其利益也。毀形以成其志。故棄鬚髮美容。變俗以會其道。故去君臣華服。雖形闕奉親。而內懷其孝。禮乖事主。而心戢其恩。澤被怨親以成大順祐怙幽顯豈拘小違。上智之人依佛語。故為益。下凡之類虧聖教故為損。懲惡則濫者自新。進善則通人感化。此其大略也。而傅氏所奏。在司猶未施行。奕乃多寫表狀。遠近公然流布。京室閭里。咸傳禿丁之誚。劇談酒席。昌言胡鬼之謠。佛日翳而不明。僧威阻而無勢。于時達量道俗勳豪成論者非一。各疏佛理具引梵文。委示業緣曲垂邪正。但經是奕之所廢。豈有引廢證成。雖曰破邪終歸邪破。琳情正玄機獨覺千載。器局天授博悟生知。睹作者之無功。信乘權之有據。乃著破邪論。其詞曰。莊周云。六合之內。聖人論而不議。六合之外。聖人存而不論。老子云。域中有四大。而道居其一。考詩書禮樂之致。忠烈孝慈之先。但欲攸序彜倫。意存敬事君父。至德惟是安上治民。要道不出移風易俗。自衛返魯。詎述解脫之言。六府九疇。未宣究竟之旨。案前漢藝文志所紀眾書一萬三千二百六十九卷。莫不功在近益。俱未暢遠途。誠自局於一生之內。非迥拔於三世之表者矣。遂使當見因果理涉旦而猶昏。業報吉凶義經丘而未曉。斯並六合之寰塊。五常之俗謨。詎免四流浩汗為煩惱之場。六趣諠譁造塵勞之業者也。原夫實相杳冥。逾要道之道。法身凝寂。出玄之又玄。惟我大師體斯妙覺。二邊頓遣萬德斯融。不可以境智求。不可以形名取。故能量法界而興悲。揆虛空而立誓。所以見生穢土誕聖王宮。示金色之身吐玉毫之相。布慈雲於鷲嶺。則火宅焰銷。扇惠風於雞峰。則幽途霧卷。行則金蓮捧足坐則寶座承軀。出則天主導前。入則梵王從後。聲聞菩薩儼若朝儀。八部萬神森然翊衛。演涅槃則地現六動。說般若則天雨四花。百福莊嚴。狀滿月之臨滄海。千光照曜。如聚日之映寶山。師子一吼。則外道摧鋒。法鼓暫鳴。則天魔稽首。是故號佛。為法王也。豈與衰周李耳比德爭衡。末世孔丘輒相聯類者矣。是以天上天下。獨稱調御之尊。三千大千。咸仰慈悲之澤。然而理深趣遠。假筌蹄而後悟。教門善巧。憑師友而方通。統其教也則八萬四千之藏。二諦十地之文。海殿龍宮之旨。古諜今書之量。莫不流甘露於萬葉。垂至道於百王。近則安國利民。遠則超凡證聖。但以時運未融。致令漢梵殊感。故西方先音形之奉。東國後見聞之益。及慈雲卷潤慧日收光。迺夢金人於永平之年。睹靈骨於赤烏之歲。於是漢魏齊梁之政像教勃興。燕秦晉宋已來名僧間出。或神力救世。或異跡發人。或慧解開神。或通感適化。及白足臨刃不傷。遣法為之更始。志上分身員戶。帝王以之加信。具諸史籍其可詳乎。並使功被將來傳燈永劫。議者僉曰。僧惟紹隆佛種。佛則冥衛國家福廕皇基。必無廢退之理。我大唐之有天下也。應四七之辰。安九五之位。方欲興上皇之風開正覺之道治致太平永隆淳化。但傅氏所述酷毒穢詞。並天地之所不容。人倫之所同棄。恐塵黷聖覽。不可具觀。伏惟陛下。布含弘之恩。垂鞠育之惠。審其逆順議以真虛。佛以正法遠委國王。陛下君臨斯當付囑。謹上破邪論一卷。用擬傅詞。文有三十餘紙。自琳之綴釆貫絕群篇。野無遁賢朝無遺士。家藏一本咸誦在心。並流略之菁華。文章之冠冕。茂譽於是乎騰廣。昏情由之而開尚矣。琳又以論卷初出意在弘通。自非廣露其情。則蔞隸不塵其道。乃上啟儲后諸王及公卿侯伯等。並文理弘被庶績咸嘉。其博詣焉。故奕奏狀因之致寢。遂得釋門重敞。琳寔其功。東宮庶子虞世南。詳琳著論。乃為之序胤而傅氏不愜其情重施密譖。搆扇黃巾用為黨類。各造邪論貶量佛聖。昏冒生靈衒曜朝野。蟬蕕既雜時所疑焉。武德九年春。下詔京置三寺惟立千僧。餘寺給賜王公。僧等並放還桑梓。嚴敕既下莫敢致詞。五眾哀號於槁街。四民顧嘆於城市。于時道俗蒙然投骸無措。褚由震方出帝氛祲廓清。素襲啟聞範究宗領。登即大赦還返神居。故佛日重朗於唐世。又由琳矣。琳頻逢黜陟。誓結維持。道挫世情良資寡學。乃探索典籍隱括玄奧。撰辯正論一部八卷。穎川陳子良注之。并製序曰。昔宣尼入夢。十翼之理克彰。伯陽出關。二篇之義爰著。或鉤深系象。或探賾希夷。名言之所不宣。陰陽之所不測。猶能彌綸天地包括鬼神。道無洽於大千。言未超於域內。況乎法身圓寂妙出有無。至理凝玄跡泯真俗。體絕三相累盡七生。無心即心非色為色。筌蹄之外豈可言乎。若夫西伯拘羑遂顯精微。子長蠶室卒成先志。故易曰。古之作易者。其有憂乎。論之興焉。良有以矣。道士李仲卿劉進喜等。並作庸文謗毀正法。在俗人士或生邪信。法師愍其盲瞽遂著斯論。可謂鼓茲法海振彼詞鋒。碧雞之銳競馳。黃馬之峻爭騖。莫不葉墜柯摧雲鎖霧卷。但此論窮釋老之教源。極品藻之名理。恐好事後生。意有未喻。弟子近申頂禮。從而問津。爛然溢目。若日月之入懷。寂乎應機。譬寶珠之燭物。既悟四衢之幻。便息百城之遊。於是啟所未聞。為之注解。良以文學雄伯群儒奉戴。誘勸成則其從如雲。貞觀初年帝於南山大和宮舊宅。置龍田寺。琳性欣幽靜。就而住之。眾所推美舉知寺任。從容山服詠歌林野。至十三年冬。有黃巾秦世英者。挾方術以邀榮。遂程器於儲貳。素嫉釋種。陰陳琳論謗訕皇宗。罪當誷上。帝勃然下敕沙汰僧尼。見有眾侶乃依遺教。仍訪琳身據法推勘。琳扼腕奮發。不待追徵。獨詣公庭。輕生徇理。乃縶以縲紲。下詔問曰。周之宗盟異姓為後。尊祖重親寔由先古。何為追逐其短。首鼠兩端。廣引形似之言。備陳不遜之喻。把毀我祖禰。謗黷我先人。如此要君。罪有不恕。琳答曰。文王大聖。周公大賢。追遠慎終。昊天靡答。孝悌之至通於神明雖有宗周義不爭長。何者皇天無親竟由輔德。古人黨理而不黨親。不自我先不自我後。雖親有罪必罰。雖讎有功必賞。賞罰理當。故天下和平。老子習訓道宗。德教加於百姓。恕己謙光。仁風形于四海又云。吾師名佛。佛者覺一切人也。乾竺古皇。西昇逝矣。討尋老教。始末可追。日授中經示誨子弟言。吾師者善入泥洹。綿綿常存。吾今逝矣。今劉李所跡。謗滅老氏之師。世莫能知。著茲辯正論。有八卷。略對道士。六十餘條。並陳史籍。前言實非謗毀家國。自後辯對二十餘列。並據琳詞。具狀聞奏。敕云。所著辯正論。信毀交報篇曰。有念觀音者。臨刃不傷。且赦七日令爾自念。試及刑決能無傷不。琳外纏桎梏內迫刑期。水火交懷訴仰無路。乃緣生來所聞經教及三聖尊名。銘誦心府。擬為顯應。至于限滿。忽神思彯勇膻逸胸懷。歡慶相尋頓忘死畏。立待對問。須臾敕至云。今赦期已滿。當至臨刑。有何所念。念有靈不。琳援筆答曰。自隋季擾攘四海沸騰。役毒流行干戈競起。興師相伐舍檀兵威。臣佞君荒不為正治。遏絕王路固執一隅。自皇王弔伐載清陸海。斯寔觀音之力。咸資勢至之因。比德連蹤道齊上聖。救膻死於帝庭。免淫刑於都市琳於七日已來。不念觀音。惟念陛下。敕治書侍御史韋悰問琳。有詔令念觀音。何因不念。乃云惟念陛下。琳答。伏承觀音聖鑒塵形六道。上天下地皆為師範。然大唐光宅四海。九夷奉職八表刑清。君聖臣賢不為抂濫。今陛下子育恒品如經。即是觀音。既其靈鑒相符。所以惟念陛下。但琳所著正論。爰與書史倫同。一句參差任從斧鉞。陛下若順忠順正。琳則不損一毛。陛下若刑濫無辜。琳則有伏屍之痛。具以事聞。遂不加罪有敕徙于益部僧寺。行至百牢關菩提寺。因疾而卒。時年六十九。沙門慧序。經理所苦。情結斷金。曉夕同衾慰撫承接。及命將盡在序膝上。序慟哭崩摧淚如駛雨。乃召諸關旁道俗。葬於東山之頂。高樹白塔。勒銘誌之。行路望者知便下淚。序本雍州武功人。善經籍通佛理。明攝論以為敷化之訓。體道開俗言無品藻。將護遊僧用為家操。本住京輦後移梁益。以百牢衝會四方所歸。道俗栖投往還莫寄。序乃宅寺關口。用接遠賓。故行侶褚之。詠歌盈耳。于時治書侍御史韋悰。審英飾詐。乃奏彈曰。竊以大道鬱興。沖虛之跡斯闡。玄風既播。無為之教寔隆。未有身預黃冠志同凡素者也。道士秦英。頗學醫方薄閑咒禁。親戚寄命羸疾投身。姦婬其妻禽狩不異。若情違正教心類豺狼。逞貪競之懷。恣邪穢之行。家藏妻子門有姬童。乘肥衣輕出入衢路。楊眉奮袂無憚憲網。健羨未忘觀繳在慮。斯原不殄至教式虧。請䉤嚴科以懲婬侈。乃入大理。竟以狂匿被誅。公私怪其死晚。琳所著詩賦啟頌碑表章誄大乘教法并諸論記傳。合三十餘卷。並金石擊其風韻。縟錦繢其文思。流靡雅便。騰焰爾穆。又善應機說導。即事騁詞。言會宮商義符玄籍。斯亦希世罕嗣矣。

こちらでは拓跋の件はよく分からないですね。
ここで簡単に法琳のことを解説しておくと、法琳は初唐の僧で、俗姓は陳氏、貫籍は穎川郡の人です。長安の済法寺や龍田寺に住持しました。『破邪論』や『弁正論』の著者でもあります。唐の武徳四年(621年)に傅奕が廃仏の議論を起こしたとき、これに反論して高祖に廃仏を思いとどまらせました。貞観十三年(639年)には、道士の秦世英が法琳が皇祖皇宗を誹謗していると進言したため、法琳は太宗の面前で弁明しましたが、益州(四川)に流されてしまいます。翌年、配地で病没しました。

「拓跋の子孫」の件は『続高僧伝』より『法琳別伝』のほうがくわしいので、こちらを見てみます。

『唐護法沙門法琳別傳』卷中
http://ccubk14.brinkster.net/GREATBOOK/V50/2051_002.htm#P4
後十三年秋九月。有黃巾秦世英者。薄閑醮禁粗解醫方。挾伎術以佞時。因得志於儲后。陰陳法師之論言訕謗皇宗。毀黷先人。罪當誷上。帝乃赫然斯怒。

『続高僧伝』で十三年冬となっているところ、こちらでは十三年秋九月になっていますが、秦世英が法琳を皇帝の先祖を侮辱した罪で告発します。帝(=太宗)は赤くなって怒ります。

『唐護法沙門法琳別傳』卷下
http://ccubk14.brinkster.net/GREATBOOK/V50/2051_003.htm#P12
http://ccubk14.brinkster.net/GREATBOOK/V50/2051_003.htm#P13
琳聞。拓拔達闍唐言李氏。陛下之李。斯即其苗。非柱下隴西之流也。

法琳は弁明します。「拓拔(=跋)達闍が唐の言う李氏です。陛下の李氏は、その子孫です。隴西の李氏ではありません。」

http://ccubk14.brinkster.net/GREATBOOK/V50/2051_003.htm#P14
竊以拓拔元魏。北代神君達闍達系陰山。貴種經云。

「拓跋氏の北魏のことをおもうに、北代神君の達闍は陰山に連なる貴種だといわれています。」太宗の先祖を侮辱したわけではないというわけです。

http://ccubk14.brinkster.net/GREATBOOK/V50/2051_003.htm#P22
帝曰。法琳雖毀朕宗祖。非無典據。特可赦其極犯。徙在益部為僧。

しかし残念ながら、太宗は法琳が先祖を侮辱したと認定します。本来は死刑だけど、特別に減刑してやるので益州で僧をやれというわけです。なにげに名君アピールです。

http://ccubk14.brinkster.net/GREATBOOK/V50/2051_003.htm#P24
主上瞋嫌釋教翻覆。汝若所陳必當寧容徙汝劍南。

「おまえのいうことがもし本当なら、おまえを剣南にうつすのを受け入れるべきだ!」
いや怒ってます、怒ってます。少なくとも怒ったポーズは取ってます。
唐の李氏が拓跋であるという法琳の説がどの程度の信憑性があるのかは今となっては分かりません。本当に箸にも棒にもかからないトンデモ説だったので太宗が怒ったのかもしれないですし、図星をついていたけど怒ったふりをして法琳を罰したのかもしれません。
真偽はともかく、道教・仏教間のバトルにおいて、太宗は道教側に軍配を上げるわけです。じっさい拓跋の子孫説より老子の子孫の隴西李氏説のほうが都合がよかったのでしょうね。しかしだからといって、法琳を殺してしまうのも寝覚めが悪い…というか、あまりにバランスを欠くので、流刑ということにして落としどころを作ったわけです。
ということで結論ですが、太宗李世民が法琳に弁明の場を与えて言いたいことをひととおり言わせたのは本当だと思います。しかし、怒らなかったってのはちょっと違うんじゃないでしょうか。