「子貴母死」と「立子殺母」と

中国の南北朝時代北魏には、君主の後嗣となる嫡子が立てられると、その生母を殺害する「子貴母死」という制度がありました。『春秋公羊伝』にみえる「子以母貴、母以子貴」をもじって作られた史称ですが、北魏の特異な制度を端的に表現しています。また別の言葉では、「立子殺母」ともいいます。
その犠牲者としては、
1.道武宣穆皇后劉氏(明元帝の生母)
「太祖末年,后以舊法薨」(『魏書』皇后伝)
「(天賜)六年七月,夫人劉氏薨,後諡為宣穆皇后」(『魏書』天象志一)
2.明元密皇后杜氏(太武帝の生母)
「泰常五年薨」(『魏書』皇后伝)
「五年六月丁卯,貴嬪杜氏薨,後諡密皇后」(『魏書』天象志一)
3.太武敬哀皇后賀氏(景穆太子の生母)
「神䴥元年薨」(『魏書』皇后伝)
4.景穆恭皇后郁久閭氏(文成帝の生母)
「世祖末年薨」(『魏書』皇后伝)
5.文成元皇后李氏(献文帝の生母)
「太安二年,太后令依故事,令后具條記在南兄弟及引所結宗兄洪之,悉以付託。臨訣,每一稱兄弟,輒拊胸慟泣, 遂薨」(『魏書』皇后伝)
6.献文思皇后李氏(孝文帝の生母)
「皇興三年薨」(『魏書』皇后伝)
「(皇興)三年,夫人李氏薨,後諡思皇后」(『魏書』天象志一)
7.孝文貞皇后林氏(廃太子元恂の生母)
「以恂將為儲貳,太和七年后依舊制薨」(『魏書』皇后伝)
8.孝文昭皇后高氏(宣武帝の生母)
「后自代如洛陽,暴薨於汲郡之共縣」(『魏書』皇后伝)
といった人々が挙げられます。これも最後の孝文昭皇后高氏とかは、わりと怪しくて、宣武帝が皇太子に立てられる前に不審死しているので、また別の理由が憶測されていたりします。

さて、宣武霊皇后胡氏(孝明帝の生母)の代になって、
「而椒掖之中,以國舊制,相與祈祝,皆願生諸王、公主,不願生太子。唯后每謂夫人等言,天子豈可獨無兒子,何緣畏一身之死而令皇家不育冢嫡乎。及肅宗在孕,同列猶以故事相恐,勸為諸計。后固意確然,幽夜獨誓云,但使所懷是男,次第當長子,子生身死,所不辭也。既誕肅宗,進為充華嬪。先是,世宗頻喪皇子,自以春秋長矣,深加慎護。為擇乳保,皆取良家宜子者。養於別宮,皇后及充華嬪皆莫得而撫視焉及。肅宗踐阼,尊后為皇太妃,後尊為皇太后。臨朝聽政,猶稱殿下,下令行事」(『魏書』皇后伝)
と、その豪腕でこの制度を覆してしまいました。以後は「子貴母死」の例は見られなくなります。

この「子貴母死」制度のことは、正史中では「舊法」(旧法)とか「故事」とか「舊制」(旧制)とか呼ばれているのですが、その解釈は大きく二つに分かれています。
ひとつには、北魏の前身である鮮卑拓跋部あるいは代国以来の旧制度であるとする解釈です。しかしながら道武帝より以前の拓跋首長の妻や代国の王妃にこの制度が行われていたことが確認できないのです。
もうひとつには、漢の武帝を起源とする「立子殺母制」の継承とみなす解釈です。漢の武帝外戚の専横を防ぐために太子劉弗陵(のちの昭帝)を生んだ鉤弋夫人(趙婕妤)を殺害したという話があるのです。
まず鉤弋夫人の死因については、『漢書外戚伝に「有過見譴,以憂死」とされ、殺害されたとは言われていません。しかし『史記外戚世家の褚少孫の補作部分に「後數日,帝譴責鉤弋夫人。夫人脫簪珥叩頭。帝曰,引持去,送掖庭獄。夫人還顧。帝曰,趣行,女不得活。夫人死雲陽宮」とあり、こちらでは殺害が示唆されているのです。続く節に「左右對曰,人言且立其子,何去其母乎。帝曰,然。是非兒曹愚人所知也。往古國家所以亂也,由主少母壯也。女主獨居驕蹇,淫亂自恣,莫能禁也。女不聞呂后邪」とあって、武帝呂后の故事を持ち出して殺害を正当化しています。
もし鉤弋夫人が武帝に殺害されたのが本当のことだとしても、以降の「立子殺母」の例が北魏まで見られません。武帝以後に子の皇帝の治世を生きて見届けた生母の皇太后は何人もいるのです。後に続かないものを制度と呼ぶのは難しいところです。

漢の武帝が鉤弋夫人を殺した理由というのもそもそも言い訳くさいのですが、北魏の道武帝が夫人劉氏を殺害した理由も実は「舊法」などではなく、外聞をはばかる家庭の事情だったのではないでしょうか。それを「舊法」と取り繕ってしまったために、北魏の宮廷で世代を重ねて継承されてしまったというあたりが実際ではないかと思われます。