曹魏南部君墓誌

君諱陵,字子皐,天水冀人也。以漢建安八年春正月七日癸巳生,魏景初三年夏五月十二日丙申遭疾而卒,年卅有七,冬十有二月葬于此土。君之祖父,故上計掾,察茂才,四城令,張掖太守。伯父武陵□城太守。父舉孝廉賢良方正,察茂才,高平令,司空府闢舉茂才,槐里令,西海太守,議郎,諫議大夫。一從父舉孝廉,金吾丞…(三行半判読不能)…君在官,惠愛公平,吏民稱述。
南部君長女字金璧,以魏黃初七年秋九月二日生,至太和三年春三月遭厲氣夭折,年四歲,時在京師。
南部君第二女字悪藥,以魏太和二年冬十有一月廿六日生,至五年秋八月十九日遭疾夭折,亦年四歲,時在都尉官舍。
南部君第三女字君壽,以魏太和六年秋九月十七日生,至青龍二年秋七月十三日遭疾夭折,年三歲,時在都尉官舍。
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 2015年に洛陽で出土した三国時代墓誌だが、墓主の姓は不明。墓主の諱は陵、字は子皐。貫籍は天水郡冀県。祖父・伯父・父の官歴を記録しているが、その諱を記録していない。肝心の墓主当人の閲歴を記録した部分の欠損が激しく判読不能という残念な墓誌である。しかし幼くして夭逝した三人の娘の記録がしっかりしているのには、愛を感じる。
 封号の南部君だが、南部といえば、後漢三国の用法では郡の南部を指すことが多い。やや飛躍した連想でいえば、匈奴の南部五骨都侯との関係を考えるのも面白いか。
 天水冀人というと、『三国志』では楊阜と姜維が知られているが、六朝では尹氏もまた有力である。そのへんの伝世史料と結び付けて考えるのも限界があり、既知の歴史と未知の過去の境界を撫でるだけである。