馮季華墓誌について

馮季華墓誌は、北魏の正光五年(西暦524年)に作られた墓誌です。
1920年に洛陽城北の徐家溝村の東南で出土したもので、とくに新しいものではありませんが、今回取りあげてみることとします。
墓主は北魏の楽安王妃の地位にあった馮季華(?-524)という女性です。北魏の太師馮熙(?-495)の八女で、明元帝の玄孫にあたる楽安哀王元悦(476-511)の妃です。
馮季華の曾祖父は、北燕の昭成皇帝馮弘(墓誌中では「道鑒/燕昭文皇帝」)です。曾祖母は皇后慕容氏。
馮季華の祖父の馮朗は、北燕の広平公で、太平真君年間(440-451)に北魏に帰順し、使持節・征西大将軍・秦雍二州刺史に任じられ、西郡公(『魏書』皇后伝では西城郡公、外戚伝では遼西郡公)に封じられています。薨去すると、仮黄鉞・太宰の位を追贈され、爵位は燕宣王に進められています。文成帝の文明皇后馮氏(441-490)の父にあたります。
馮季華の父の馮熙は、馮朗の子で文明皇后の兄にあたります。北魏外戚として太傅・太師といった高位に上り、昌黎王に封じられています。
何よりこの墓誌で圧巻なのは、馮季華の姉たちについての記述があることです。長姉は南平王妃となり、第二姉と第三姉は孝文皇帝の后となり、第四姉と第五姉は孝文皇帝の昭儀となり、第六姉は安豊王妃となり、第七姉は任城王妃となったとしています。
つまり、馮熙の長女は南平王元篆の妃となり、次女は孝文帝の幽皇后(馮潤)となり、三女は孝文帝の廃皇后(馮清)となり、四女は孝文帝の馮昭儀となり、五女も同じく孝文帝の馮昭儀となり、六女は安豊王元延明の妃となり、七女は任城王元澄の妃(馮令華)となり、八女は楽安王元悦の妃(馮季華)となったことがここから考証できるのです。
十六国のひとつである北燕は436年に滅びましたが、その主であった長楽馮氏は北魏閨閥として1世紀近くも強い根を張っていたことになります。そこにどのような政治的力学が働いていたのか、まだ充分に解明されているとはいえないでしょう。

魏故樂安王妃馮氏墓誌銘 曾祖道鑒燕昭文皇帝曾祖母皇后慕容氏祖朗燕封廣平公真君中入
國蒙除散騎常侍駙馬都尉又除使持節征西大將軍秦雍二州刺史封西郡公薨追贈假黃鉞太宰進爵燕宣王
父熙和平四年蒙授冠軍將軍肥如侯到六年進爵昌黎王又除侍中太傅王如故又除使持節征東大
將軍駙馬都尉定州刺史又除太師中書監領祕書事又除使持節車騎大將軍都督並雍懷洛秦肆北豫
七州諸軍事開府洛州刺史羽真尚書都坐大官侍中王如故復除太師后以異姓絕王改封扶風郡開國公
食邑三千戶薨贈假黃鉞謚曰武公母樂陵郡君太妃兄思政侍中議曹尚書駙馬都尉征西大將軍羽真
南平王入侍左右即拜為侍中征北大將軍復除議曹尚書轉為殿中尚書后特進都督中外諸軍事中軍將軍
異姓絕王改封長樂郡開國公食邑一千八百戶后遷特進為司徒公侍中都督如故復加太子太師本官如故復
本官加大將軍領車騎大將軍薨於鍾離追贈使持節假黃鉞大司馬領司徒謚曰元懿公特加九錫其瑁
賜之隆悉逾常典長姊南平王妃第二第三姊並為孝文皇帝后第四第五姊並為孝文皇帝昭儀
第六姊安豐王妃第七姊任城王妃

妃諱季華長樂郡信都人也太宰之孫太師之第八女大司馬之妹清
源遂遠高峰無計至於乃霸乃王之盛或相或公之美固以史牒之所
詳於斯可得而略妃幼稟奇姿長標令譽三德必修四行無爽該攬圖
傳備閑內則年廿二歸於元氏起家而居有千乘貞淑而作合君子敬
等如賓和同琴瑟及王薨徂治服過禮訓誨諸子成玆問望以正光五
年三月卅日寢疾薨于第以其年十一月甲子朔十四日甲子合窆於
長陵之東銘曰
周稱媯呂漢曰韋平桃李仍降俊德連聲於惟公族異世同禎簪珥芳
紫樹物揚旌日照屋梁鳥飛叢木仁智外衍幽閑內省爰姑及姊如金
如玉后聖妃賢載榮載燭瞻彼江漢眷此河洲將追盛烈言庶前修六
笳熲熲百兩攸攸剋玆相敬成斯好仇涉水焉濟陵虛忽摧夜憂耿耿
晨哭哀哀留連垂滯殆厥方來在河無忒君城自頹美音足慕義風可
仰貞心遂邈峻節兪上若隙之過如飆之往容典虛備鉦笳徒響九族
必臻三占襲奏初墳日竦塵根歲茂嗟起惟私愴於民秀曷寄聲彩遺
之彫籀