督郵を鞭打つ

三国志演義』第二回において、張飛が督郵を鞭打った挿話は、物語の初期に人物の性格を印象づける役割を負っている。実際の歴史ではこのようなことはあったのだろうか。期待に反して督郵受難の例は正史にそれほど多くはない。

後漢書』張王种陳列伝
ときに魏郡太守が県に賄賂を出させようとしたが、繁陽県令の陳球が渡さなかったために、太守は怒って督郵を打ち、陳球を追放させようとした。督郵は承知せず、「魏郡に十五城がありますが、ひとり繁陽は注目すべき統治をおこなっています。いま陳球を追放する命をお受けすると、天下に議論を呼び起こしてしまいます」と言った。太守はそこで取りやめた。

この伝で督郵は魏郡太守に「撾」(ぶつ、打つ)されているが、鞭で打たれているわけではない。また督郵に無礼があったわけではない。

三国志』蜀書先主伝
先主(劉備)はその部下を率いて校尉の鄒靖に従い、黄巾賊を討って功績を挙げ、安喜県の尉に任じられた。督郵が公務のために県に到着し、先主が督郵に面会を求めたが、通されなかったため、押し入って督郵を縛り上げ、杖で二百回叩くと、印綬を解いてその首に繋ぎ、馬柱につけ、官を棄てて亡命した。

もちろんこの伝が「張飛が督郵を鞭打つ」の元ネタであることは言うまでもない。正史の『三国志』において督郵を打った主役は張飛ではなく劉備である。督郵は劉備に会わなかっただけであり、それ以上の無礼は記録されていない。裴注所引の『典略』により、督郵が劉備を解任するためにやってきたことが分かってはいるが、それにしても正史の劉備はかなりうろんな人物であったらしい。ちなみに「杖」は伝統的に「むちうつ」と訓読されるが、実際は長い棒で叩いていたのであろう。

宋書』良吏伝
阮長之は母が老いたため、襄垣県令の官を求めて補任された。督郵が無礼だったため、これを鞭打ち、職を去った。

劉備張飛らの200年後にまた督郵は鞭打たれることとなった。ここではじめて督郵の無礼が現れるが、具体的なことは記されていない。