秦の君侯

実際的な封土支配とどこまで結びついているのか、はっきりしないところが多いが、戦国末期から統一後にかけての秦の君や侯を拾ってみた。誤脱があれば、ご指摘いただきたい。

◎昭襄王前期
厳君疾(『史記正義』曰、「蓋封蜀郡厳道県」)
穰侯魏冄(宣太后弟)
涇陽君(王弟)
高陵君(王弟)
城陽
◎昭襄王後期
安国君(太子=孝文王)
応侯范睢(魏人)
武安君白起
葉陽君(華陽君の誤りか?)
華陽君
陽泉君
剛成君蔡沢(燕人)
始皇帝前期(統一前
文信侯呂不韋(河南雒陽十万戸を食邑とする)
長安成蟜(王弟)
昌平君(楚人)
昌文君(楚人)
衛君元君(野王県)
周君(陽人の地に祭祀を保つ)
長信侯嫪毐
始皇帝後期(統一後)
武城侯王離(徹侯)
通武侯王賁(徹侯)
建成侯趙亥(倫侯)
昌武侯成(倫侯)
武信侯馮毋擇(倫侯)
衛君角(野王県)
◎二世皇帝期
安武侯趙高

始皇帝は統一後も子孫を王や公に立てる封建をおこなわなかった。しかし商鞅以来の二十等爵を引き継いだため、功臣が徹侯(列侯)や倫侯(関内侯)の爵位を受けることで、封建の外形の一部は残されることとなった。また旧支配層の一部を君として残してもいる。ただし倫侯は封邑を持たず、徹侯や君の封邑は県レベル以下にとどまることで、新たな郡県制の整備とはバッティングしなかったものと思われる。