張重について

とても賢い14歳のベトナム人少年の話
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2013/05/14-88a0.html
張重という機知に富んだ少年が、前漢の昭帝と問答をするお話です。
作者のfinalvent氏によると、

元になる故事はあるけど作品としてはオリジナルです。
https://twitter.com/finalvent/status/329518579378692096

ということです。さて中国史好きとしては触発されるものがあって、張重について色々調べてみました。以下の文章は、歴史物語をあげつらう意図はありませんので、夢を壊されてもOKというかたのみがお読み下さい。

張重,日南計吏,形容短小。明帝問云,何郡小吏。答曰,臣日南計吏,非小吏也。
『東観漢記』巻十

まずは後漢期成立のもっとも古い史料ですが、張重については簡単な記述しか残っていません。張重は日南郡の計吏で、身体が小さかったため、後漢の明帝が「何郡の小吏だ」と訊ねると、張重は「臣は日南の計吏で、小吏ではありません」と答えたといいます。張重は少年だったのではなく、短躯を揶揄されて、皇帝に食ってかかったわけです。張重の問答相手が前漢の昭帝ではなく、後漢の明帝とされていることも注目点です。

後漢書曰,張重,字仲篤。明帝時舉孝廉。帝曰,何郡小吏。答曰,臣,日南吏。帝曰,日南郡人應向北看日。答曰,臣聞雁門不見壘雁為門,金城郡不見積金為郡,臣雖居日南,未嘗向北看日。
『太平御覧』巻四 天部四

宋代の類書『太平御覧』に見られる記述です。張重は、字を仲篤といいました。後漢の明帝のときに孝廉に挙げられます。明帝が「何郡の小吏だ」と訊ねると、「臣は日南の吏です」と答えます。明帝が「日南郡の人は北向きに太陽を見ているのだろう」と訊ねると、張重は「臣は雁門郡が雁を重ねて門としたとは聞かず、金城郡が金を積んで郡としたとは見聞しませんでした。臣は日南に住んでいますが、北向きに太陽を見たことはありません」と答えたといいます。ちなみに『太平御覧』が『後漢書』を引用したことになっていますが、現行の『後漢書』にこの部分はありません。

交州名士傳曰,張重,字仲篤,舉計。漢明帝易重,問何短小。重曰,陛下欲得其才,將稱骨度肉也。
『太平御覧』巻三百七十五 人事部一十六

これも『太平御覧』に見られる記述です。『交州名士伝』を引用していますが、明帝に短躯をあげつらわれると、張重は「陛下は才能を求めておいでなのに、骨や肉づきを述べようというのですか」と答えたとされています。

漢明帝嘲張重曰,日南郡人應北向看日。然北方瀚海,有熟羊胛,而天明之國,出塞七千里,便可南視北斗矣,安知無北向看日之地乎。
謝肇淛『五雑俎』巻一 天部一

明代の『五雑俎』の記述です。「日南郡の人は北向きに太陽を見ているのか」という明帝の嘲笑に対して、北方の瀚海(バイカル湖)が引き合いに出されるなど、またレトリックが少し変化しています。

張重,字仲篤,合浦人。篤學善言,嶺表望士、刺史推擇為日南郡從事,上計入洛,明帝訝其么麼,問之曰,何郡小吏重抗聲。對曰,臣日南計吏,非小吏也陛下。欲得其才抑將稱骨度肉也。帝善其對。正旦大會,帝問曰,日南郡北向視日耶。重對曰,郡有雲中、金城,不必皆有其是,日南日亦俱出於東爾。至於風氣暄暖日影,仰當官民居,止隨情面向東西南北廻背,無定所謂日域在南者也。帝益善之,賜以金帛。自此上計召對皆有賞焉。
欧大任『百越先賢志』巻二

明代の『百越先賢志』の記述です。これまでの総まとめのような内容ですが、「合浦の人」という張重の貫籍が書き加えられています。合浦は現在の広西自治区の地名ですので、これを信じればベトナムの人ではないことになります。もちろん明代に突然現れた記述に信憑性があるわけではありませんが、それ以前の記述も張重の貫籍や民族系統が明らかなわけではなく、日南郡の吏がベトナム人とは言い切れないことは留意すべきでしょう。

漢明帝時,合浦人張重為日南郡從事,舉計入雒。帝問重,日南郡北向視日也。對曰,天下北有雲中,南有日南,雲中非必在雲之中。日南豈必在日之南,日南之日,亦出於東耳。帝善其言。吾以為日南者,非在日之南,乃日在於南也。日南者,又天之南也,不曰天南,以其地在南方,積陽之極,人多文明,物多瓌麗,皆日之精華所發,故曰日南也。南方為離,離為日,以日名南,以其得日之多也。日出於南,是南為日之所有。月出於坎,是北為月之所有。日有其南,而月不得有,故曰日南也。又易稱,日月得天而久照。日得天之南,而天遂以南歸之,若天不有其南然者,故曰日南也。
屈大均『広東新語』巻一 天語

清代の『広東新語』の記述です。日南郡従事という官名が登場しているのが注目点です。あとは「日南郡の人は北向きに太陽を見ているのか」の理屈が長くなっているのですが、たぶん言ってることは大して変わっていない…はずです。

ところでfinalvent氏の作品の元ネタは

李暹『千字文注』です。
https://twitter.com/finalvent/status/329720296321990656

とのことです。

漢昭帝召集天下學士。時南國有張重,年十四,亦至殿前。帝見小兒怪而問之曰,卿是何人。重曰,是學士也。帝曰,卿年幼少,豈有才學。重曰,陛下召集學士,要論肉重骨多者。有才學少者,即無才學。帝亦問曰,卿是日南人。可向北看日。重答,北有雲中之郡,百姓豈向半天。而居東有鴈門之郡,豈即累厂為門。東北有北海之郡,百姓豈向水中安居。西南有盬城之郡,豈累盬為城。臣所居地名日南,豈即向北看日。陛下不解而問臣,豈不是九州之闇君。昭帝羞之,無言可答,三公奏曰,張小兒輕慢陛下,帝乃處分殺之。張重合掌,向天大咲。帝曰,朕欲殺卿,何不憂死,而反咲耶。重曰,臣見陛下殿前,死待天子處分。是為喪主三公,送出朝堂門。即是得三公,為送喪客。雖死,何憾是。是故喜之。帝見其言赦之,不殺封為雲中太守。重答曰,臣不明雲中太守。願與臣九州學士。若天下有學士,共臣論難,臣若一句有失任,陛下斬為兩叚。帝問曰,天有頭否〜
李暹『千字文注』 男効才良

あら、後漢の明帝ではなく、finalvent氏の作品どおり前漢の昭帝になってますね。天下の学士を集めたこともここに出てきています。年齢も14歳ということに。北海郡や塩城郡の例とか、三公を喪主にするとか、ほかに見られないレトリックがあり、最も面白い話になっています。
李暹の『千字文注』は五代十国時代の成立なのですが、中国では散逸してしまい、日本に残されていたものが現代に伝わっています。おそらく筆写の過程で「漢明帝」が「漢昭帝」に書き換えられてしまったのだと思います。ほかの史料に見られない記述については、別系統の史料があったのかも知れませんね。『千字文注』が最も発展した逸話を保存しているというのは、また興味深いことです。

最後にまとめると、後漢明帝期に日南郡の官吏の張重という人物がいたのはおそらく真実ですが、逸話は後世に付加されており、個々の信憑性は定かではないということになります。ただもっとも古い二次史料である『東観漢記』も散逸を経ており、現存の輯本も完全とはいえないため、後世の諸書に付加された挿話も、もしかしたら古いテキストを引いて保存している可能性も否定できません。