重瞳

史記』五帝本紀は、「目重瞳子,故曰重華」といい、帝舜の重瞳の伝説を記録している。
史記項羽本紀は、「又聞項羽亦重瞳子」といって、項羽の重瞳の風聞を伝えている。
『晋書』呂光載記は、「身長八尺四寸,目重瞳子,左肘有肉印」といって、呂光を重瞳と記している。
梁書』沈約伝は、「約左目重瞳子」といい、沈約の左目を重瞳と伝えている。
『南史』賊臣伝は、王偉の檄文として「項羽重瞳,尚有烏江之敗」といい、項羽の重瞳説を採用している。
『隋書』魚倶羅伝は、「目有重瞳,陰為帝之所忌」といい、魚倶羅の重瞳を伝えている。
『新五代史』梁家人伝は、「目重瞳子,嘗竊自負,以為當為天子」といい、後梁の康王朱友孜を重瞳としている。
資治通鑑後晋紀伝は、「此僧目重瞳子,手垂過膝」といい、雪峰寺の僧卓巌明の重瞳を伝えている。
『新五代史』南唐世家は、「一目重瞳子」といって、南唐後主李煜の片目を重瞳と記している。
『新五代史』東漢世家は、「為人美鬚髯,目重瞳子」といって、北漢世祖劉旻を重瞳としている。
『明史』明玉珍伝は、「身長八尺餘,目重瞳子」といい、明玉珍の重瞳を記録している。

重瞳は英傑にそなわる特異な身体的特徴とみなされており、手を垂らして膝を過ぎたり、額に日角があったりといった記述と同様に、帝王異類譚として史書の記述に積極的に取り入れられた。