「竟陵八友」を疑う

 『梁書武帝紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,高祖與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並遊焉,號曰八友」とあり、『南史』梁本紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,帝與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並游焉,號曰八友」とある。南朝斉の竟陵王蕭子良が開いた西邸の文学サロンに蕭衍(のちの梁の武帝)・沈約・謝朓・王融・蕭琛・范雲・任昉・陸倕の8人が集った「竟陵八友」の出典である。『梁書』沈約伝に「時竟陵王亦招士,約與蘭陵蕭琛、琅邪王融、陳郡謝朓、南鄉范雲、樂安任昉等皆遊焉,當世號為得人」とあるのなども、その傍証となるであろう。

 『梁書』や『南史』が西邸サロンと八友の記述に比較的熱心であるのに対して、『南斉書』は冷淡である。同書の劉絵伝に「永明末,京邑人士盛為文章談義,皆湊竟陵王西邸」と見える程度である。同書の何昌㝢伝に「永明元年,竟陵王子良表置友、學官」とあり、同書の謝𤅢伝に「永明初,高選友、學,以顥為竟陵王友」とあり、西暦483年に竟陵王蕭子良の下に「友」の官が置かれ、謝𤅢の兄の謝顥が「竟陵王友」となっていることが知れる。なお蕭子良の「友」となったことが伝に明確なのはこの謝顥のみであり、かれは「八友」に数えられていない。唐の丘丹『経湛長史草堂』に「至齊竟陵王友江淹,亦有繼作」とあり、江淹が竟陵王友となったように見えるが、これは根拠が判然としない。いずれにせよ、この江淹も「八友」に数えられていない。「八友」でない者が「竟陵王友」となっており、「八友」が「竟陵王友」となったことは史料上裏付けられないのだ。「八友」とは梁代に武帝のもとに集った高官・文学者たちの箔つけのための後付けの名数ではないか。それに武帝自身が含まれているのも、露骨な話ではないか。

 さて、ここで上記の論が諸侯王の官である「友」にこだわり過ぎて、「友」を厳格に解釈しすぎているのではないかという反論を想定しよう。「八友」は「竟陵王友」の官とは関係がないのだとしよう。それならば、以下の伝に見えるような王僧孺・孔休源・江革・范縝・王亮・宗夬らが「八友」に数えられなかった理由を考えていただきたい。いっぽう蕭子良との関係がはっきりしない謝朓・蕭琛が「八友」に数えられているのも不可解だ。
梁書』王僧孺伝
「司徒竟陵王子良開西邸招文學,僧孺亦遊焉」「初,僧孺與樂安任昉遇竟陵王西邸,以文學友會」
梁書』孔休源伝
「琅邪王融雅相友善,乃薦之於司徒竟陵王,為西邸學士」
梁書』江革伝
「司徒竟陵王聞其名,引為西邸學士」
梁書』范縝伝
「于時竟陵王子良盛招賓客,縝亦預焉」「初,縝在齊世,嘗侍竟陵王子良」
梁書』王亮伝
「齊竟陵王子良開西邸,延才俊以為士林館,使工圖畫其像,亮亦預焉」
梁書』宗夬伝
「齊司徒竟陵王集學士於西邸,並見圖畫,夬亦預焉」