中国の幕府

史記』建元以来侯者年表に「給事大将軍幕府」という役職についた人物が何人か見える。
「杜延年,以故御史大夫杜周子,給事大將軍幕府」
「燕倉,以故大將軍幕府軍吏發謀反者騎將軍上官安罪有功」
「楊敞,家在華陰,故給事大將軍幕府,稍遷至大司農,為御史大夫
「蔡義,家在溫,故師受韓詩,為博士,給事大將軍幕府,為杜城門候」
「邴吉,家在魯,本以治獄為御史屬,給事大將軍幕府」
この役職は大将軍幕府に給事するとも読むことができるし、前漢の中葉には大将軍の幕府があったのだろう。

史記』李将軍列伝や『漢書』李広伝に「莫府」というものが見える。これについて『漢書』の注は二つの説を引いている。ひとつは晋灼の説で「将軍職は征行にあると居処が定まらなかったので、所在を治とし、このため莫府と言ったのである。莫とは大である」というもの。もうひとつはある人の説で、「衛青が匈奴を征討し、大勝利をおさめた。幕中府で大将軍に就任したので、莫府といい、莫府の名はここに始まるのである」というもの。顔師古は「二説はみな非である。莫府とは、軍幕を意味する。古字では莫と幕が通用していただけである。軍旅ではとどまる常居がなかったので、帳幕を莫府と言ったのである。廉頗と李牧は市租をみな幕府に入れていた。これはつまり衛青によって莫府の号が始まったわけではないということだ。また莫を大と読むのでは、意味が乖離している」と主張した。

なお顔師古の説は『史記』李牧伝に「以便宜置吏,市租皆輸入莫府,為士卒費」とあることを踏まえているが、廉頗についてはこれが見えない。中国における幕府は戦国時代後期に現れたと言ってよいのか。あるいはより慎重に前漢中期以降に現れたとみなすほうがよいのだろうか。