樊於期=桓齮の説

秦の樊於期を桓齮と同一人物とみる説は、楊寛『戦国史』P191に見えます。

史記趙世家記𨖗年“秦攻赤麗宜安,李牧率師與戰肥下,却之”。李牧列傳也說:“牧爲大將軍擊秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。”戰國策趙策四誤作“殺秦將桓齮”。此後就不見爲秦將事,所謂“走”當是大敗後畏罪逃走。戰國策燕策三和史記荊軻列傳稱有“秦將樊於期得罪於秦王,亡之燕”,“父母宗族皆爲戮沒”,“秦王購之金千斤,邑萬家”。秦始皇本紀詳載屢次出戰秦將姓名,獨不見樊於期。我們認爲樊於期即是桓齮,音同通假,猶如田忌或作田期、田臣思。桓齮於秦始皇十四年敗走,燕太子丹於秦始皇十五年由秦歸國,時代也正相當。


秦将とされる樊於期の秦での閲歴は、まるで分かっていません。桓齮が紀元前233年(始皇14年)に趙の李牧に敗北してから後の事蹟も、これまた判明していません。さらに樊於期と桓齮の音は良く似ています。同一人物とみると、時代的な辻褄はしっかり合ってしまうんですよね。
しかしこの説をどの程度まともに取り合ったらいいのかは、……さてどうでしょうねえ。