「毐国」

原泰久『キングダム』に嫪毐の「毐国」が登場しています。
結論からいうと、この「毐国」を国名として扱うのは、間違いなんじゃないかと思います。
史記』始皇本紀の始皇八年の条から関係部分を抜き出してみます。
「嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國
一見したところ、「河西太原郡」を「毐國」に改めたように読めますね。
参考として、ちくま文庫の小竹文夫・小竹武夫訳『史記I』P138から同じ部分を引いておきます。
「嫪毐が封ぜられて長信侯となった。山陽の地を与えて毐をおらせた。宮室・車馬・衣服・苑囿・狩猟など毐の欲するに任せ、事は大小となくみな毐に決せられた。また汾西(山西・汾水の西方)の太原郡をあらためて毐の封地とした」
小竹兄弟は「毐國」を「毐の封地」と訳しています。これは自然な訳だと思います。もし「毐国」なる独立か半独立かは知りませんが、そういう国名が存在したなら、嫪毐は「毐国」の君か王か公か侯などでなければおかしいことになります。毐君か、毐王か、毐公か、毐侯とでも称されるべきでしょう。しかしそんな称号は存在しません。つづく始皇九年四月の条では、「長信侯毐作亂而覺」と言って、長信侯のまま反乱計画を暴かれているのです。
ここは「毐國」を「毐国」という国名として読むのが誤読なので、「毐の(封)国」と読むべきなんでしょう。書き下すなら、「又(また)河西太原郡を以て更(あらた)めて毐の國と為す」くらいが適当でしょう。

ちなみに、ちくまの小竹訳は『史記』本文の「河西」を「汾西」と改めて訳しています。ここは『史記』三家注のひとつ『史記集解』の「徐廣曰,河,一作汾」を受けて改めたものです。これも当然の見解で、当時の「河西」は、現在の甘肅の河西回廊ではなく、黄河褶曲部に囲まれた現在のオルドス地方を指していました。ところが当時の「太原郡」は、現在の山西省太原市にほぼ相当します(ただし郡治は汾水の東ではなく汾水の西にあった)。未知の太原郡がオルドスにあったのなら話は別ですが、「河西」は伝文の誤りとみるのが相当でしょう。また「汾西」ならば、矛盾は発生しません。