獦生墓誌

 王連龍『新見北朝墓志集釈』(中国書籍出版社)pp.105-107にある西魏の獦生墓誌を見ています。

父使持節、安北將軍、都督秦州諸軍事、秦州刺史、略陽郡開國公、諱步肱。使持節、安北大將軍、都督南荊州諸軍事、銀青光祿大夫、南荊州刺史、當州大都督、昌陽子、三門縣開國伯,封君諱獦生,在職薨殞,旨贈秦州刺史,管給依礼,塟于方壃山,刊石之銘。
大統九年歳次癸亥十月戊午朔廿七日遷窀。

 甘粛省天水市で出土した墓誌ですが、誌蓋を欠いていて誌文はごく簡潔です。誌主の姓が不明であり、誌主の「獦生」とその父の「歩肱」が正史に見えない人物であるため、謎の多い史料といえます。

 王連龍氏は父子の任地である秦州や南荊州に注目して、西魏の南部辺境に鎮守する「世代良将」だったとしていますが、南部辺境を守った人物にしては父子の将軍号である「安北(大)将軍」は不審ではないでしょうか。安北の将軍号は北部の州刺史の職任とセットであることが多いものです。ここでは父歩肱の爵位である「略陽郡開国公」に注目してみます。墓誌の出土地である現在の天水市のある地域も当時の略陽郡の管轄下に属していました。そして略陽郡は秦州に属していたのです。父子が「安北(大)将軍」の号を伝えていたのは、北魏西魏の北方(実際には北西)を守ることを期待されていたからであり、秦州刺史(子の獦生においては贈官)とされたのも略陽郡の在地有力者だったからではないでしょうか。

 『魏書』臨渭氐苻健伝によると、前秦の苻健や苻登が略陽公を称しています。同書の閹官伝によると、北魏の文明太后に仕えた宦官の苻承祖もまた略陽公の爵位を受けています。伝世史料では北魏の孝文帝の初期までは略陽郡公の爵位を略陽郡臨渭県の氐である苻氏が伝えていたように思われます。歩肱もそうした延長の略陽郡公だったのではないでしょうか。

 ということで、当該墓誌の誌主獦生は略陽苻氏の人物であるという説を推していきたいと思います。