王朝の至宝展感想
神戸まで足を延ばして「中国 王朝の至宝展」見てきました。近年の中国での考古出土文物のうちで特徴あるものを持ってきて、夏・殷から遼・宋までの時代テーマ順に配列したような展示でした。以下つれづれと書いていると、どうもコンセプト面に対する批判が多くなってしまったのですが、決してモノが悪かったわけではないので、興味のあるかたは亭主の戯れ言など気にせず、どしどし見に行って下さい。批判が不快だという人は、早いうちに引き返したほうが賢明です。
第一章 王朝の曙 「蜀」と「夏・殷」
「蜀」を「夏・殷」より先に持ってきているのは、展示上のサプライズを狙ったか、あるいは昨今流行りの多元一体論を強調したかったのでしょうが、全体の展示が時代順っぽく配列されていることもあり、金沙が二里頭以前みたいな妙な先入観を植えつけなければいいのですけど。
さて1.突目仮面や2.人頭像は、1998年の三星堆展にも来ているものでして、おそらく2度目の来日です。1998年の来日のさいには、それぞれ「縦目仮面」「金面人頭像」とキャプションされていたものです。「突目」のインパクトあるフォルムはかなり前から知ってたんですが、実物みると目の部分のボリューム感に視線を引かれます。こないだの「中国文明の謎」放送のときにも気になっていたのですが、あの仮面は縦目ではなく「突目仮面」という呼称で通すみたいです。『華陽国志』の「有蜀侯蠶叢,其目縱」や「故俗以石棺槨為縱目人冢也」といった縦目の記述を、あの仮面の目とリンクさせる説に対して慎重論が勝ったみたいですね。
三星堆文物は前世紀末より古蜀の代表的な遺跡文物として紹介されてきた経緯がありますが、今回の展示では今世紀初頭発見の金沙遺跡出土のものが十数点来ていました。金沙出土の4.金製仮面や5.金製漏斗形器などは古蜀の黄金文化な側面を伝えています。金製品に比べて地味ですが、12.玉琮や15.玉璋などは古蜀が決して孤立した文化ではなく、中原や長江下流域の文化とも交流があったことを伝えてくれています。8.跪坐人物像は、古蜀の王権のかたちについて想像をかきたてます。9.虎は、「蛇紋石に元来備わる斑文を巧みに活かし」とか説明されているのですが、実見するところ疑問符がつきますし、摩耗が激しいためそもそも本当に虎なのかあやしいと思いました。頭に穴の開いた7.人形器は、人の四肢を極度に単純化・図像化することで異形を示しています。護符っぽくはありますが、確かなことは分かりません。13.梯形玉器も類例がないものですね。穴の開いているところから、楽器の一部かなあと考えたりもしましたが、まあ根拠の乏しい想像でしかありません。古蜀の出土文物は変なものばかり…とは、言いすぎですが。
さて、夏・殷の文物は、前述の蜀の文物と比べて衒いの少ない穏当なものが多かったと思います。二里頭・鄭州商城・殷墟の出土文物を数点ずつ持ってきてます。青銅彙器もシンプルなものを選んでますね。ユニークなものといえば、陶寺遺跡出土の23.歯車形飾板くらいですか。アンティキティラ島の機械とか好きな人は喜ぶと思います。全くの余談ですが、19.盉の類の青銅器は急須のご先祖様なんだなと、いまさら。
第二章 群雄の輝き 「楚」と「斉・魯」
作為的思惑のありそうな展示の章立てです。春秋なら楚に対置されるのはふつう「晋」でしょうし、戦国ならまた様々考えられそうですが、「楚」と「斉・魯」とを対置して展示するというのは目新しいというより奇抜なだけのように思われます。表面的には、湖北・湖南から持ってきたものを「楚」、山東から持ってきたものを「斉・魯」と適当にくくっているだけのように見えます。馬王堆漢墓出土の40.人物俑を「楚」とくくってはダメでしょうし、伝陝西省出土の47.「頌」簋を「斉・魯」とするのもミスリードでしょう。55-56.の臨淄の大武漢墓の出土品を「斉・魯」に置くのもどうかと思います。前漢にも斉王はいましたが、そういう意味で「斉・魯」と書かれているわけではないでしょう。
展示コンセプトの雑さはさておき、展示品自体は興味深いものが多かったです。漆塗りのべとっとした感じの残る34.甲冑は、意外と見る機会のないものですし。32.羽人は蝦蟇仙人のルーツを疑わせるに足る異質な存在感をかもしています。31.鎮墓獣は、ここでは鹿のお化けですが、現代アートと称するオブジェに似たものを見たことがあるような気もしますね。戦国の漆製品は全般に妙なものが多いと思います。
青銅彙器は前章のものより紋様の複雑なものを選んでました。時代観が操作されているような気がしてならないですが。
おそらくテーマ的には、「斉・魯」(孔子)の礼器文化と巫祝的な楚文化とを対置して多元論を強調したかったのだと思います。ここでは二分法にしかなっていないのが、残念です。
第三章 初めての統一王朝 「秦」と「漢」
この章では、軍事的な秦と文化的な漢という対比が鮮明でした。59.跪射俑、61.弩、62.矢箱、63.矢といった秦の武官俑や武器を複数紹介しつつ、漢代の文物ではそういう面をおくびにも出しません。軍事国家としての秦という側面もないとは言いませんが、いささかやりすぎでしょう。
さておき秦代の58.龍はよく持ってきてくれたなあと。
地味ながら漢代の71.画像磚や72.玉鋪首あたりもグッドかと。
第四章 南北の拮抗 「北朝」と「南朝」
この手の展示ではいつものことですが、仏教と中央アジアの影響がはっきり現れるこの時代の文物。84.王建之墓誌あたりがむしろ浮いていて清々しいですね。王建之墓誌は『新出魏晋南北朝墓誌疏証』に字釈が簡体字で収録されていたりしましたが、今回ゲンブツが読みやすい楷書で読めてよかったです。栄妣ってふしぎな字だなあとか、都亭侯の亭がはしご高っぽい字になってるなあとか愚にもつかない感想を抱きながら見てました。85.人物文磚や86-87.蓮華文磚など六朝墓の磚も出てましたね。89.男性俑は気持ち悪かったです。あれはドヤ顔でR−15指定すべきです。91.楼閣人物神亭壺は、甕に乗っかった家屋その他がデフォルメ妖怪化して非常にコミカルなのですが、もしかしたら漢代に盛行した猪圏の発展した姿なのかもと亭主は睨んでいます。
第五章 世界帝国の出現 「長安」と「洛陽」
唐の長安を国際都市、洛陽を宗教都市という位置づけで対比しているようです。しかし長安にも大雁塔的な宗教性はあったでしょうし、洛陽にも豊都市的な国際性はあったとみるべきでしょう。出土文物で分けるのも作為的にならざるをえず、またここでも二分法の罠に落ちていると思われます。
さて110-111.胡服女性俑や112-115.女性俑など福々しい美女の姿は、この時代の美の特徴をよく捉えていると思います。117.大日如来坐像や122.仏坐像が唐代の仏教文化のストイックな面を標示しているとすれば、邪鬼を楽しそうに踏んでいる123.天王俑は仏教文化の戯画的な側面を示しています。119.花鳥文鏡や126.蛤形合子が唐代の貴族文化の繊細さを代表しているとすれば、129.菱花文壺や130.鴛鴦文枕は生活実用品の素朴さを誇示しています。長安と洛陽とかいう分け方をせずとも、わずか22点の中で唐代文化の多元性は示せていると思います。
第六章 近世の胎動 「遼」と「宋」
遼の文物と宋の文物を対比しようとしている章ですが、どちらも仏教文物が多く、また黄金の使われたものがともに目立つこともあって、あまり対比に成功しているとはいえません。余計なことですが、遼・宋を近世と呼ぶのは京都学派の時代区分ですね。
注目すべきは134.銀製仮面や135.力士托棺が、プレ・モンゴルたる契丹人のふくよかな相貌を伝えていることでしょう。137.や150-162.にみえる仏教文物の名品の数々は、前代より洗練の度を加えていて見応えがあります。144.波濤流雲文扁壺と遼三彩を出してるのも美味しいです。138.首飾りや139.垂飾といった女性装飾は、カトン・スタイルの盛装を想像させるところです。165.蓮弁文尊から168.龍文壺までの宋の官窯の品はむしろあっさりしていた感じですね。
以上、うるさいことを書いたのですが、まあ二分法の積み重ねで中華の多元一体を示すというコンセプトはわざとらしすぎだと感じました。弁証法もどきの文物史は勘弁していただきたいです。しかし見せ方の作為を除いて個性の強い文物を眺めていくと、安易な図式化に回収されない文化の多元性と、遺物の中に息づく複線的な進歩が見えてくるのではないかと、亭主はキメ顔で半跏思惟するのです。