秦の咸陽と天の迷宮

本邦における秦代研究者の第一人者である鶴間和幸氏が奇妙な説を唱えているので、素人なりの批判をしておきたいと思います。
宇宙と地下からのメッセージ 〜秦始皇帝陵の謎〜で、
http://www.d-laboweb.jp/event/report/121011.html

咸陽宮はペガスス座、閣道はカシオペア座、極廟はこぐま座北極星、そして北斗七星の場所には阿房宮をもってきた。そうすることによって自国こそが中華の中心であるということを主張した

と、鶴間和幸氏は主張しておられます(以下鶴間説)。これを史料に即しながら見ていきます。

史記』秦始皇本紀の始皇二十七年の条に「焉作信宮渭南,已更命信宮為極廟,象天極」とあります。ここは「信宮を渭水の南に作らせ、信宮を極廟と名を改めさせて、天の北極をかたどらせた」くらいの意味ですので、極廟が北極星という鶴間説の主張をまず仮に受け入れるとしましょう。

史記』秦始皇本紀の始皇三十五年の条に「自阿房渡渭,屬之咸陽,以象天極,閣道絕漢,抵營室也」とあります。閣道はカシオペア座の一部に相当する古代中国の星座です。漢は天漢、つまり天の川のことです。營室はペガスス座に相当します。さて視線を地上に下ろしてみましょう。そもそもここの一節は、阿房宮から渭水を渡って、咸陽に向かう話をしているのです。ダブルミーニングを整理すると、天極(北極)の阿房宮からカシオペア座の閣道を通り天の川の渭水を渡って、ペガスス座の咸陽に行くことになりますから、何やら前段と異なる話になります。極廟(信宮)と阿房宮は同じく渭水の南に位置していますが、場所としては異なる位置にあります。極廟が天極(北極)であると同時に、阿房宮も天極(北極)ということがありうるでしょうか。ここで鶴間説が阿房宮を北斗七星と言っている典拠不明な記述を思い出してみます。

史記』天官書が「中宮天極星,其一明者,太一常居也。旁三星三公,或曰子屬。後句四星,末大星正妃,餘三星後宮之屬也。環之匡衞十二星,藩臣。皆曰紫宮」と言っています。天極星(当時の北極星こぐま座β星)は、太一(天帝)の住むところ。ただ北極の「紫宮」(天帝の宮殿)と取るなら、北極星の一点ではなく、二十個の恒星から成る広がりを持っていたことが分かります。しかし天官書が北斗七星の条を別立てにしているように、北極の「紫宮」には北斗七星は含まれていません。阿房宮が北斗七星なら、前述の『史記』始皇三十五年の条が阿房宮を天極(北極)の出発点としてに置くのはおかしいということになります。

さて『史記正義』荊軻列伝に「三輔黃圖云,秦始兼天下,都咸陽,因北陵營宮殿,則紫宮象帝宮,渭水貫都以象天漢,膻橋南度以法牽牛也」とあります。『史記』の注釈書のひとつ『史記正義』は、ここで『三輔黄図』を引用しています。統一後の秦は咸陽の北陵に宮殿を営んだことが言われているのですが、どうも渭水北岸の咸陽宮がここでは「紫宮」(≒帝宮=北極)ということになっているのです。渭水が天漢(天の川)をかたどって都を貫き、横橋(渭橋)が南に渡っているのは牽牛(アルタイル)に相当するわけです。

旧唐書』許敬宗伝に「秦都咸陽,郭邑連跨渭水,故云,渭水貫都,以象天河」とあるのも、『三輔黄図』の記事が変形したものでしょう。余談ですが、秦の都の咸陽が後世の印象と異なり、渭水の北岸だけでなく、渭水の南北両岸に広がりを持つものだったことは、強調されてよいと思います。「渭水は天漢を象るを以て都を貫く」というのもなかなか良いフレーズです。

話を戻しますと、北極星に相当するが極廟なのか、阿房宮なのか、咸陽宮なのか、史料の選択によって三説の三すくみになっています。ただ秦の宮殿の配置が天文をかたどっているという伝説に触れて、後世の研究者が辻褄を合わせるために血道を上げ、辻褄を合わせきれないという滑稽さはどうにもぬぐえません。