翁仲

 かつて書いた「始皇帝の銅人」を承けて、銅人話の変奏をば。始皇帝の鋳造させた巨大な十二金人(銅人、長狄人)は、後漢末の董卓によりその10体まで破壊され、銅銭の資材にされてしまったことは前述した。

 『晋書』五行志上は次のように言っている。
「景初元年,發銅鑄為巨人二,號曰翁仲,置之司馬門外。案古長人見,為國亡。長狄見臨洮,為秦亡之禍,始皇不悟,反以為嘉祥,鑄銅人以象之。魏法亡國之器,而於義竟無取焉。蓋服妖也」
(西暦237年、魏の明帝は銅を徴発して巨人2体を鋳造させ、翁仲と名づけ、洛陽の司馬門の外にこれを置かせた。調べると古代に長人が現れたときは、国が滅ぼされている。長狄が臨洮に現れたのは、秦の亡国の兆しであったのに、始皇帝は理解せず、かえってこれをめでたい兆しとみなして、銅人を鋳造してこれを象らせた。魏が亡国の器を真似したのも、長人出現の意味を理解していなかったからだ。おそらく服飾の怪異というものであろう)

 三国時代の魏の明帝は銅人2体をコピーして、「翁仲」と名づけ、洛陽の司馬門外に置かせたのである。

 『三国志』魏書明帝紀景初元年の条について、裴注は『魏略』を引いて次のように言っている。
「是歳,徙長安諸鐘簴、駱駝、銅人、承露盤。盤折,銅人重不可致,留于霸城。大發銅鑄作銅人二,號曰翁仲,列坐于司馬門外」
(この年、魏の明帝は長安の鐘簴・駱駝・銅人・承露盤などを洛陽に移させようとした。承露盤は壊れ、銅人は重くて動かせなくなり、霸城に留められた。明帝は多くの銅を徴発して銅人2体を鋳造させ、翁仲と名づけ、洛陽の司馬門の外に並べさせた)

 明帝が銅人をコピーしたのは、オリジナルの銅人の長安からの移転に失敗したからである。

 謝承『後漢書』に「銅人,翁仲其名也」(銅人、翁仲がその名である)という。ここで指す銅人は始皇帝の作らせたオリジナルの銅人のことである。合わせてみると、魏の明帝は新たに鋳造した銅人に始皇帝の銅人の名を襲名させ、洛陽に置かせたことになる。

 さて、明帝の鋳造させたコピー「翁仲」はどうなったのか。

 『晋書』石勒載記下に
「勒徙洛陽銅馬、翁仲二于襄國,列之永豐門」
(石勒は洛陽の銅馬と翁仲2体を襄国に移させ、永豊門に並べさせた)
といい、同書石季龍載記上に
「咸康二年,使牙門將張彌徙洛陽鍾虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉于鄴」
(西暦336年、石虎は牙門将の張弥に命じて洛陽の鍾虡・九龍・翁仲・銅駝・飛廉を鄴に移させた)
といっている。

 このふたつを同時に信じることは難しい。洛陽にあった翁仲を石勒が襄国に移させ、また洛陽にもどし、石虎が鄴に移させたというのでなければ。

 また『晋書』赫連勃勃載記に
「復鑄銅為大鼓,飛廉、翁仲、銅駝、龍獸之屬,皆以黃金飾之,列于宮殿之前」
(また赫連勃勃は銅を鋳て大鼓を作らせ、飛廉・翁仲・銅駝・龍獣の仲間を作らせ、黄金でこれらをみな飾らせて、宮殿の前に並べさせた)
というから、また新たな銅人「翁仲」が鋳造されることもあったらしい。洛陽にもコピーが複数あったのかもしれないし、オリジナルとコピーの混同があったのかもしれない。

 「翁仲」が陵墓の前に並ぶ石人像の名となるのは、また後世の別の話となる。