曹触竜と左師触竜

 『荀子』臣道篇に「若曹觸龍之於紂者可謂國賊矣」という一節がある。金谷治訳注『荀子(上)』(岩波文庫)p.292の訳を引くと、「曹触竜が殷の紂王にとりいっ〔て亡国におとしいれ〕たのなどは国賊というべきである」とある。
 また『荀子』議兵篇に「微子開封於宋曹觸龍斷於軍」という一節がある。前掲書『荀子(上)』p.322を引くと、「微子啓は宋に封建されたが曹触竜は軍できり殺され」とある。
 殷の紂王の臣下に曹触竜という人物がいたとする伝説は、『荀子』をもとにしている。この曹触竜と混同される伝説的人物に左師触竜というのがいる。
 劉向『説苑』巻十に「其臣有左師觸龍者諂諛不止湯誅桀左師觸龍者身死四支不同」とある。訳をつけると、「夏の桀王の臣下に左師触竜という者がいて、阿諛追従のとどまることがなかった。殷の湯王が夏の桀王を殺すと、左師触竜は四肢ばらばらにされて死んだ」といったところか。ここまで曹触竜と左師触竜はエピソード的に類似しているが、その主君を殷の紂王とするか、夏の桀王とするかで異なっている。
 さて、左師触竜の初出は、じつは前漢末の『説苑』ではない。司馬遷史記』趙世家孝成王元年条に「左師觸龍言願見太后太后盛氣而胥之」という一節がある。小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記世家(中)』(岩波文庫)p.169の訳を引くと、「左師(上卿)の触竜が太后に目どおりしたいと申し出た。太后は怒気はげしく、しばらく待たせた」とある。ここでは左師触竜は紀元前3世紀の戦国趙の人物なのである。
 劉向『戦国策』趙策四の趙太后新用事章に「左師觸讋」が登場し、『史記』趙世家と類似した挿話を収録している以上、劉向は戦国趙に左師触竜という人物がいたことを知っていたはずである。それにもかかわらず、別著の『説苑』では左師触竜を夏殷革命のころの人物として加上した疑いがある。なお戦国時代の荀況の著作を整理して『荀子』にまとめたのも、前漢末の劉向なのである。曹触竜と左師触竜をめぐる後世の記述の混乱は、一義的に劉向に責任がある。しかも故意である疑いすら捨てきれない。