鍾離国

考古なニュースですが、安徽省蚌埠市の双墩1号墓(春秋時代のお墓)から編鐘の銘文が出て、墓主は鍾離国の君主と断定されたらしいですよ。
http://www.bbrx.cn/html/200809/27/093442599.htm

「鍾離国」でググるとうちのサイトしか引っかからない今のうちになんか言っておこうと思います。
ちなみにこうすると多少ひっかかりますけども。

「鍾離国」って春秋時代の小国ですが、伝世史料がほとんどないんで、よく分からない国ですよ。

史記索隠』伍子胥列伝

二邑,楚縣也。按:鍾離縣在六安,古鍾離子之國,系本謂之「終犁」,嬴姓之國。居巣亦國也。桀奔南巣,其國蓋遠。尚書序「巣伯來朝」,蓋因居之於淮南楚地也。

二邑(鍾離と居巣)は、楚の県である。調べると、鍾離県は六安にあり、古の鍾離子の国である。系本はこれを「終犁」といい、嬴姓の国とする。居巣もまた国である。桀が南のかた巣に逃れたというから、その国はおそらく遠かったのであろう。『尚書』が「巣伯が来朝した」と述べたが、おそらく巣伯が淮南の楚の地にいたためだろう。

史記』秦本紀の最後

太史公曰:秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、脩魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。

太史公(司馬遷)が言うよ。秦の先祖は嬴を姓とした。その後に分封され、国を姓とし、徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、将梁氏、黄氏、江氏、脩魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏があった。しかるに秦はその先祖の造父が趙城に封ぜられたので、趙氏となった。

ここのところ『史記集解』が徐広を引いて「世本が『鍾離』と作る」と言ってますので、終黎氏=鍾離氏なわけです。

このへんの断片的な情報を整理すると、鍾離(終犁)という国があって、その君主は嬴姓(終黎氏=鍾離氏)で爵位は子爵です。いつの間にやら楚に併合されて楚の県にされちゃった模様です。楚の平王のとき(紀元前517年)、楚の鍾離県は居巣県と一緒に呉の軍に蹂躙されてしまった(『左伝』昭公24年)ということです。
このくらいしか文献で分かることはないです。今回の双墩1号墓の発見で新たな事情が判明したわけでもないようですが、春秋時代の「鍾離」が確かにそのへんにあって、君主格の人物が墓作ってたのだろうというお話です。

追記(10.22)レコードチャイナの記事に見えるように、双墩1号墓の墓主は鍾離国の君主の「柏」であり、別の鳳陽村の墓の墓主が柏の子の「康」であることが分かったり、新たな事情は判明しているようですね。
ちなみに問題の銘文は「惟(唯)王正月初吉丁亥童鹿君柏作其行鐘童鹿金」と「孫童鹿公柏之季子康」で、銘文中の「童鹿」が「鍾離」を指しているもようです。