皇族かもね

以下は思いつきなので、あまり真に受けられても困るんですが。

(始皇九年四月)衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人皆梟首。
(紀元前238年4月)衛尉の竭・内史の肆・佐弋の竭・中大夫令の斉ら二十人は、みなさらし首にされた。
 史記』秦始皇本紀第六

秦代の嫪毐の乱のときに、連座して殺害された人々です。「衛尉」・「内史」・「佐弋」・「中大夫令」は、いずれも官名です。原泰久『キングダム』では、「竭氏」や「肆氏」といって、氏(苗字)のように扱われていますが、「竭」や「肆」は「内史騰」の「騰」などと同じで、諱(名)です。姓氏は不明といったところですが、ここを攻めてみると、秦の皇族の嬴姓(あるいは趙氏)だったのかもしれないなと思います。正史の本紀で初出であるにも関わらず姓氏を省略されている場合、それが自明であって、つまりは本紀に立てられている人物と同氏であることが多いんですよね。「竭」や「肆」は「趙竭」や「趙肆」だったのかもしれないなと、考えるわけです。その延長からいうと、「内史騰」も「趙騰」だったかもねという話になるわけでして……。ま、ヨタ話でした。

追記:やはり上の妄想のようなことは成り立たないようです。コメント欄参照。