秦代の楚派・趙派の興亡

以下は亭主の妄想で書き殴っているので、話半分で聞かれたい。キングダムとはまた別の人間模様が見えるかもしれない。

秦の昭襄王末年から孝文王の時期にかけて、秦の内朝には楚出身者のグループがあった。孝文王の夫人の華陽后やその弟の陽泉君らを中心としたグループである。そこに食い込んだのは、呂不韋であった。呂不韋は趙に人質として出されていた秦の公子異人を見いだし、かれを華陽后らに売りこんだ。華陽后は楚服を着た公子を気に入り、楚(子楚)と改名させ、太子に立てさせる(『戦国策』秦策五−濮陽人呂不韋賈于邯鄲)。孝文王が死去すると、太子子楚は即位して荘襄王となった。

呂不韋荘襄王擁立の功労者として相国にのぼった。荘襄王の后はもと呂不韋の妾であり、趙の出身であった。この后の子が秦王政(=始皇帝)である。呂不韋は楚出身者たちと蜜月の関係を築きつつ、おのれの配下を扶植した。その中核となったのはやはり趙出身者たちだと考えられる(呂不韋死後に部下の趙出身者の追放されたことが『史記』秦始皇本紀の始皇十二年条に見える)。呂不韋の部下に楚の出身の李斯が属したのも、呂不韋が楚派を食った一端がうかがえる。しかし楚派も一方的に呂不韋に利用されたわけでなく、昌平君と昌文君が相国となったように、自派の勢力拡大を図っており、両派は共存共栄の関係にあった。

呂不韋と楚派との蜜月が破れたのは、直接には嫪毐の乱をきっかけとする。始皇九年(前238年)に楚派の昌平君と昌文君が嫪毐の乱を鎮圧し、翌十年(前237年)に呂不韋は失脚し追放された。十二年(前235年)、呂不韋が死に、部下の趙出身者たちは追放される。始皇帝の親政の開始とともに秦国は楚派の天下となった。昌平君・昌文君・李斯ら、楚出身者が多く政権の枢要を占めた。呂不韋や鄭国の事件の「反省に立った」逐客令も、名も知れぬ秦国国粋派の徒花にすぎず、現実に楚派の実力を排除できるわけもなかった。

楚派の全盛は十年で終わりを告げる。始皇帝二十三年(前224年)、昌平君が項燕に擁立されて楚王を称し、秦にそむく。翌二十四年(前223年)、昌平君は戦死。昌文君もほぼ同時期に死去している。ひとり残された李斯に楚派を支える意図はなく、法家官僚として秦朝による郡県支配に意をそそいだ。

楚派の退場した秦朝には再び趙派の影が差す。始皇二十八年の琅邪台石刻の銘文には、倫侯建成侯の趙亥や五大夫趙嬰の名が見える。かれら趙氏が趙出身者なのか、秦の皇族の趙氏なのか、判然としない。しかし趙氏を明記されていることじたい興味深い。皇族なら姓氏を表に出さないと思われる。

最後に現れるのが、趙高である。かれが趙出身者であるのは『史記蒙恬列伝に明記されている。始皇三十七年(前210年)、始皇帝行幸先の平台で死去すると、李斯とともに二世胡亥を擁立した。趙高は諸公子を殺害し、李斯親子をはじめ大臣たちを粛清して、権力を一手に握るのである。