サルが土牛に乗る話

 唐の徐堅『初学記』巻二十九猴第十五に
「郭頒魏晉世語曰,司馬宣王辟周泰為新城太守,鍾毓謂泰曰,君釋褐登宰府,乞兒乘小車,一何駃,泰曰,君明公之子,少有文彩,故守吏職,獼猴乗土牛,一何遲,衆賓悦服」
とある。

 司馬懿周泰を召し出して新城太守としたという下りに大いに引っかかるところだが、ここの周泰は州泰の誤りであるらしい。『太平御覧』巻九百十にも同様の引用があり、そこでは「司馬宣王辟州泰爲新城太守」とされている。『三国志』魏書鄧艾伝裴注所引世語は「初,荊州刺史裴潛以泰為從事,司馬宣王鎮宛,潛數遣詣宣王,由此為宣王所知。及征孟達,泰又導軍,遂辟泰。泰頻喪考妣祖,九年居喪,宣王留缺待之,至三十六日,擢為新城太守。宣王為泰會,使尚書鍾繇調泰,君釋褐登宰府,三十六日擁麾蓋,守兵馬郡。乞兒乘小車,一何駛乎。泰曰,誠有此。君,名公之子,少有文采,故守吏職。獼猴騎土牛,又何遲也。眾賓咸悅。後歷兗、豫州刺史,所在有籌算績效」とあって、より長い文章を引いており、こちらのほうが郭頒『魏晋世語』のオリジナルに近いのだろうが、こちらでは鍾毓ではなく鍾繇とされているあたり、注意が必要である。引用は繰り返されているうちに、どこかを誤らないではいられないらしい。