琅邪王氏も陳郡謝氏も侯景の乱で滅んではいない

なお、南朝の貴族制は梁の武帝の末年に起こった侯景の乱によって大打撃を受け、南朝貴族の最高の地位を占めていた王氏や謝氏など、永嘉の乱後に江南に渡った北来貴族の多くが滅んだとされる。
窪添慶文『北魏史』(東方書店)p.262

  ダウトです。琅邪王氏も陳郡謝氏も侯景の乱で滅んでいません。かつて「王謝」と併称されたほどには振るわなくなったというあたりが妥当でしょう。

 まず琅邪臨沂の王氏については、『陳書』に王沖・王通の伝が立てられていますし、『隋書』には王冑の伝がみえます。『旧唐書』の外戚伝には王子顔の伝が、『新唐書』にはその父の王難得の伝があります。王子顔は唐の順宗の荘憲皇后の父であり、荘憲皇后は唐の憲宗の母にあたります。その荘憲皇后の伝も両唐書の后妃伝にあります。琅邪王氏は唐代になっても皇后ひとりを出すくらいの貴族ではあったわけです。

 陳郡陽夏の謝氏については、『陳書』に謝哲・謝嘏・謝貞の伝が立てられています。こちらは隋代以降の消息が途絶えますが、南朝陳での活動が見られる以上、侯景の乱で滅んだとはいわないでしょう。

 なお琅邪郡臨沂県は唐の地方制度では沂州臨沂県となり、陳郡陽夏県は陳州太康県となっています。陳郡謝氏の同郷の貴族である陳郡袁氏が唐代にもその活動が見えるので、南朝滅亡あたりを境に謝氏が没落し、袁氏だけが生き残ったものでしょうか。