桑乾王ふたり

「桑乾」というと、賈島の「度桑乾」や丁玲の『太陽は桑乾河を照らす』の河が想起されるだろうか。しかし以下は、桑乾河とは直接関連しない南北朝時代の小話である。

『魏書』巻21上献文六王伝上に「曄,字世茂,衍封為桑乾王,拜散騎常侍,卒於秣陵」とある。北魏の咸陽王元禧の子の元曄が南朝梁に亡命して、桑乾王に封ぜられ、秣陵で死去したという記述である。ちなみに北魏の東海王元曄とは別人である。また『梁書』巻56侯景伝に「雲麾將軍桑乾王元頵等據東陽歸順,仍遣元頵及別將李占、趙惠朗下據建德江口」とある。桑乾王元頵らが駐屯していた東陽で侯景から梁朝に帰順し、そのまま東下して建徳江口に駐屯したとの記述だ。この桑乾王元頵は桑乾王元曄との関係は不明だが、やはり北魏東魏の皇族である元氏の出自には違いなかろう。「桑乾王」という封号・王号は、管見の限りこのふたり以外に見られない。6世紀の南朝に特有の王号である。

桑乾は河の名であるとともに、土地の名である。『漢書』巻28下地理志下にみえるように、漢代の代郡に桑乾県が置かれ、これを北魏も踏襲していた。

『魏書』巻66崔亮伝に「及慕容白曜之平三齊,內徙桑乾,為平齊民」とある。北魏の慕容白曜が三斉(山東地域)を平定すると、そこの人民を桑乾に移し、平斉の民としたというのである。同書巻50の慕容白曜伝に「後乃徙二城民望於下館,朝廷置平齊郡,懷寧、歸安二縣以居之」とあるように、このとき平斉郡が置かれたことが分かる。『南斉書』巻28劉善明伝に「五年,青州沒虜,善明母陷北,虜移置桑乾」とあるが、これは同じ事件を南朝側からみた記述である。また『魏書』巻38王慧龍伝に「時制,南人入國者皆葬桑乾」とある。南朝からの帰順者が死去すると、桑乾の地に葬っていたというのである。

宋書』巻95索虜伝に「(天賜)元年,治代郡桑乾縣之平城」とある。代郡桑乾県に北魏の旧都・平城が営まれたような書きぶりである。平城は代郡平城県であるので、これは実際には誤解であるが、南朝側からは「桑乾」が北魏の旧首都圏であるとの印象を漠然と持たれていたのではないか。しかも南朝から北朝に鞍替えした者は「桑乾」に移されるのである。この地名が北魏の中枢と紐付けて観念されたとしても、不思議はない。
南朝梁は北魏の皇族の亡命者である北海王元邕や汝南王元悦を「魏主」(魏帝)に立て、元法僧を「東魏主」に立てるなど、傀儡を求心力とした北進を幾度か試みている。こうした魏主より一段低い「桑乾王」の号を北魏からの亡命皇族のために用意したのも、自然な流れであった。正史に見える元曄や元頵のほかにも、梁の桑乾王がいた可能性はまたありうる。