苻洪の改姓

 『晋書』苻洪載記によると、前秦の祖の苻洪の本姓は蒲であり、讖文に「艸付應王」とあり、またその孫の堅の背に「艸付」の字があったことを理由に、永和六年(350年)に苻氏に改姓したとされている。この改姓の理由は怪しい。

 『三国志』蜀書後主伝の建興十四年の条に「徙武都氐王苻健及氐民四百餘戸於廣都」とあり、三国の蜀漢の建興十四年(236年)に武都氐王の苻健と氐民400戸あまりが蜀郡広都県に移されていたことがわかる。この苻健は苻洪の子の前秦初代苻健とはもちろん別人である。苻健の広都移住の事情については、同書の張嶷伝や『華陽国志』劉後主志にやや詳しいが、ここでは省く。

 『晋書』宣帝紀青龍三年の条に「武都氐王苻雙、強端帥其屬六千餘人來降」とあり、三国の魏の青龍三年(235年)に武都氐王の苻双と強端が麾下6000人あまりを率いて司馬懿に降ったことがわかる。ちなみにこの苻双は前述の武都氐王苻健の弟である可能性が高い。

 3世紀の段階で氐王を称する苻氏が存在したのであり、苻洪の改姓が事実としても、前世紀以来の氐の名族の姓を借りたものだろう。讖文や苻堅の背中の字などは後付けで作られた伝説と思われる。