『人口の中国史』批判その2

読了したので、
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2020/09/18/084005
のつづきです。

p.57「西暦一世紀に王朝が西北部に遠征しなくなったことは」
 班超の存在が無視されていますね。

p.64「後漢よりも晋朝の版図は縮小し、東北部や西北部、内陸部が抜け落ちている」
 『晋書』地理志上の平州の条には、「統縣二十六,戸一萬八千一百」とあり、同じく涼州の条には、「統郡八,縣四十六,戸三萬七百」とあります。西晋初期の時点で東北部の遼寧や西北部の甘粛の数字が抜け落ちていることのほうに、疑問を入れないといけないのではないですかね。

p.74「安禄山の出自は、西域の交易をになったサマルカンドのソグド人」
 安禄山はソグド人の父と突厥人の母のあいだに生まれていて、出生地は営州あるいはモンゴリアの大きく二説があります。実父の姓が「康」なので、父方が康国=サマルカンド出身なのではないかと言われているだけです。安禄山本人は実母の再婚相手の姓を名乗っているくらいなので、実父のルーツかもしれないサマルカンドにも関わりは薄かったのではないでしょうか。

pp.92-93「一二一一年に金朝を攻略してマンチュリアと華北の大半をその版図に加え」
 1211年のモンゴルの対金戦は居庸関を落として中都を攻撃したとか、群牧監を襲って馬を略奪したとか、そのレベルではなかったですかね。対金戦の最初の年で、攻略はそこまで進んでいません。大雑把な流れを示したいだけであれば、ここでは1234年の金滅亡の年を挙げるべきだったのではないでしょうか。1211年はp.90にも出てくるわけですし。

p.156「一七二七年には烏蒙土知府に対して、再三にわたって土司の公印を差し出すように命じたが、いうことを聞かなかったために、兵を派遣して制圧したうえに、いくつもの罪状を並べて、土知府を廃絶して地方官が治める威寧州に改めている」
 烏蒙府の改土帰流の話ですが、『清史稿』地理志二十一によると、烏蒙府は雍正九年(1731年)に昭通府と改められています。同書地理志二十二によると、康熙三年(1664年)に烏撒府が廃止されて威寧府と改められ、雍正七年(1729年)に威寧府は威寧州に降格しています。烏蒙府と威寧州は全く別の土地です。烏蒙府と烏撒府を勘違いでもしたのでしょうかね。

 全体としておかしなところは序章から第二章までに集中しており、本書のメインともいうべき第三章以降はさすがに重厚で素人批判を受け付けるようなところは少なそうです。だからといって第三章から読めとも勧めづらいので、前段の手を抜かないでほしいものです。