蒙塵

 「蒙塵」というと、唐の玄宗安史の乱に際して長安を捨てて蜀に蒙塵したのが有名ですが、史書に見える蒙塵の例はもちろんそれだけではありません。
 『後漢書』荀彧伝で荀彧が曹操に語る言葉の中に「天子蒙塵」とあり、これは後漢献帝董卓によって長安に移されたことを指しています。
 『晋書』懐帝紀永嘉五年条に「帝蒙塵于平陽,劉聰以帝為會稽公」とあり、西晋の懐帝が劉聡に捕らえられて、平陽に連行され、会稽公とされたことを記録しています。
 『晋書』安帝紀元興二年条に「辛亥,帝蒙塵于尋陽」とあり、これは東晋の安帝が桓玄によって廃位され、尋陽に送られたことを示しています。
 『梁書』王僧弁伝に「宮城陷沒,天子蒙塵」とあり、これは侯景の乱によって、梁の首都建康が陥落したところの記述です。しかし梁の武帝は侯景に捕らえられて幽閉された末に衰弱死しており、建康から逃げ出していないことには注意が必要です。
 『魏書』李恵伝に「及莊帝蒙塵,侃晞奔蕭衍」とあり、これは北魏の孝荘帝が爾朱兆らによって晋陽に連行されたことで、李侃晞が南朝梁に亡命したことを示しています。
 『旧五代史』趙鳳伝に「及閔帝蒙塵于衞州」とあり、これは後唐の閔帝が李従珂に追われて洛陽を放棄し、衛州に逃れたことを指しています。
 『明史』聊讓伝に「逆寇犯順,上皇蒙塵,此千古非常之變」とあり、これは明の英宗が土木の変によりオイラトに連行されたことを指しています。
 ここまで一部の用例を挙げただけですが、君王が自ら逃亡した例だけではなく、強制的に連行されたとみられる例も少なくないことが分かります。また『梁書』王僧弁伝のように場所の移動すらみられない例もありました。ここは原義どおり「塵を蒙(かぶ)る」という意味で「蒙塵」と使われているのかもしれません。

「砲」と「炮」

 「てっぽう」というと、亭主の世代は石偏の「鉄砲」で習ったものだが、最近は日本史界隈を中心に火偏の「鉄炮」で書かれることも増えてきたように思う。
 近世の中国の火器の「ほう」はどうなのかというと、石偏の「砲」や「礮」で書かれたものが多そうだ。火偏の「炮」の用例は火器に使われるものももちろんあるが、漢方薬に対して使われるもののほうが多いように思われる。

秦は楚を荊と呼んだ

 史記三家注のひとつ『史記正義』周本紀に「秦諱楚,改曰荊」(秦は楚を避諱して、荊と改めていった)とある。
 やはり史記三家注のひとつ『史記集解』白起王翦列伝に「徐廣曰秦諱楚故云荊也」(『史記音義』の著者の徐広がいうには、秦は楚を避諱したため、荊といったのだ)ともある。こちらは『史記』白起王翦列伝の本文に「秦使翦子王賁擊荊」(秦は王翦の子の王賁に荊を撃たせた)と記述されていることを受けての注釈である。
 秦の始皇帝の父にあたる荘襄王の諱が子楚といったので、「楚」字が避諱されるのは当然だったわけだ。楚と荊は同じいばらの意味を持つことから、代用されたと考えられている。

 楚を郢と呼んだ例もある。
 『戦国策』秦策四「或為六国説秦王章」に「郢威王聞之」(郢の威王がこれを聞くと)とあり、この郢の威王は楚の威王を指している。「郢楚都也,亦避始皇父諱楚」(郢は楚の都である。また始皇の父の諱の楚を避けている)と注釈されている。趙を邯鄲と呼び、魏を梁と呼び、韓を鄭と呼んだような例が想起されよう。

 

追記:
以上のようなことを書きなぐったその日のうちに、佐藤信弥先生から当然のツッコミご指摘を受けたことを付記しておく。

洪武帝が殺していなかった人物

 趙翼『廿二史箚記』巻三十二の「明初文字之禍」条は、黄溥『閒中今古録』を引いて、

杭州教授徐一夔賀表,有「光天之下,天生聖人,為世作則」等語,帝覽之大怒曰「生者僧也,以我嘗為僧也;光則薙髮也;則字音近賊也。」遂斬之。

杭州教授徐一夔の上表に「光天の下、天は聖人を生み、世のために則を作った」などの語があったことから、洪武帝がこれを見て激怒して「生とは僧である。わたしがかつて僧であったことを示しているのだ。光とは髪を剃っていることだ。則の字は音が賊に近い」といって、ついに徐一夔を斬った。

とあるのだが、これは信用できないようだ。徐一夔の書いた「故文林郎湖広房県知県斉公墓誌銘」があり、この銘文によると、誌主の斉公は洪武戊寅(1398年)に死去しており、その翌年(1399年、建文元年)に葬られている。洪武帝に殺されていたなら、徐一夔にはこの文章を書くことができない。また『杭州府志』古今守令表によると、徐一夔は洪武六年から建文二年まで杭州教授をつとめているという。

https://www.sohu.com/a/484323070_121080230
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E4%B8%80%E5%A4%94

サルが土牛に乗る話

 唐の徐堅『初学記』巻二十九猴第十五に
「郭頒魏晉世語曰,司馬宣王辟周泰為新城太守,鍾毓謂泰曰,君釋褐登宰府,乞兒乘小車,一何駃,泰曰,君明公之子,少有文彩,故守吏職,獼猴乗土牛,一何遲,衆賓悦服」
とある。

 司馬懿周泰を召し出して新城太守としたという下りに大いに引っかかるところだが、ここの周泰は州泰の誤りであるらしい。『太平御覧』巻九百十にも同様の引用があり、そこでは「司馬宣王辟州泰爲新城太守」とされている。『三国志』魏書鄧艾伝裴注所引世語は「初,荊州刺史裴潛以泰為從事,司馬宣王鎮宛,潛數遣詣宣王,由此為宣王所知。及征孟達,泰又導軍,遂辟泰。泰頻喪考妣祖,九年居喪,宣王留缺待之,至三十六日,擢為新城太守。宣王為泰會,使尚書鍾繇調泰,君釋褐登宰府,三十六日擁麾蓋,守兵馬郡。乞兒乘小車,一何駛乎。泰曰,誠有此。君,名公之子,少有文采,故守吏職。獼猴騎土牛,又何遲也。眾賓咸悅。後歷兗、豫州刺史,所在有籌算績效」とあって、より長い文章を引いており、こちらのほうが郭頒『魏晋世語』のオリジナルに近いのだろうが、こちらでは鍾毓ではなく鍾繇とされているあたり、注意が必要である。引用は繰り返されているうちに、どこかを誤らないではいられないらしい。

骸骨を乞う

 漢籍史料に頻出する表現で、「乞骸骨」というのがあり、辞職を願い出るという意味である。大仰に見えるが、老骨を返していただきたいという謙譲表現である。初めて読む現代人は面食らうだろうが、漢籍史料を読むときの重要度は極めて高く、必須知識といっていい。「以老病乞骸骨」や「上疏乞骸骨」すら定型表現になっている。
史記項羽本紀
「范增大怒曰,天下事大定矣,君王自為之。願賜骸骨歸卒伍。項王許之」
史記』平津侯主父列伝    
「以病乞骸骨
漢書』五行志上
「後四年,根乞骸骨,薦兄子新都侯莽自代,遂覆國焉」
三国志』呉書呉主伝
「年出七十,乃上疏乞骸骨,遂爰居章安,卒於家」
『晋書』王覧伝
「頃之,以疾上疏乞骸骨
『晋書』華表伝
「數歳,以老病乞骸骨
『北史』宋隠伝
「以老病乞骸骨,不許」
旧唐書』高宗紀上
「八月甲午,右相許敬宗乞骸骨
『旧五代史』晋書華温琪伝
「清泰中,上表乞骸骨歸宋城,制以太子少保致仕」
『明史』李仕魯伝
「還陛下笏,乞賜骸骨,歸田里」

秦の妃

 唐の徐堅『初学記』巻10儲宮部太子妃第四に
「周以天子之正嫡爲王后,秦稱皇帝因稱皇后,以太子之正嫡稱妃,漢因之」
(周は天子の正妻を王后とし、秦が皇帝を称すると、皇帝の正妻を皇后と称した。太子の正妻を妃と称し、漢はこれを継承した)
とある。宋の李昉『太平御覧』巻149皇親部十五太子妃条にも同じ文が見える。
 しかし、そもそも秦が皇帝を称した始皇帝と二世皇帝の代に確認できる太子は胡亥だけである。それも始皇三十七年七月丙寅に始皇帝が沙丘平台で死去した後に、遺詔の偽作によって胡亥が太子に立てられ、咸陽に帰って喪が発せられ、二世皇帝として即位するまでのあいだである(『史記』秦始皇本紀)。この短い期間に太子胡亥の正妻が妃として立てられていたのだろうか。
 ちなみに統一以前の秦には、襄公・竫公・寧公・武公・康公・夷公・昭子・恵文君・安国君(孝文王)など複数の太子が確認できる(『史記』秦本紀)。しかし「妃」は確認できない。安国君(孝文王)の太子時代の正妻は華陽夫人と呼ばれた(『史記呂不韋列伝)が、妃とは呼ばれていない。
 秦の後宮のことは謎のベールにつつまれているが、秦の儲宮のことはさらに謎が深いと言わざるをえない。