枎枎=長孫の説

『全北斉北周文補遺』を見てたんだけど、「枎枎榮造像記」の枎枎榮って、北周義門郡公・玉壁總管の長孫澄の関係者じゃね?「枎枎榮造像記」によると、枎枎榮は北周の天和六年(西暦571年)に勳州刺史・義門郡開国公をやってるんだけど、勳州って玉壁に置かれてるんだよね。もちろん北周の明帝のときに亡くなっている長孫澄が枎枎榮と同一人物ということはありえないんだけど、爵位が同じ義門郡公で同じ地名(玉壁=勳州)がからんでるってのはすごくくさい。もう少し踏み込んでいうと、『北史』巻22に見える長孫澄の子の嶸が枎枎榮なんじゃね?そもそも枎枎って姓は、姚薇元『北朝胡姓考』にも出てこないんだよね。でも長孫氏のところをみると、長孫氏は抜抜氏とも言ってたらしいんだ。枎枎と抜抜って字形が似てないか?
以上、亭主の思いつきなので真に受けないでほしい。