索度真と斛斯蘭

宋書』巻51の宗室伝に
「義熙元年,索虜托跋開遣偽豫州刺史索度真、大將軍斛斯蘭寇徐州,攻相縣」
という記述がみえる。

宋書』にしか見えない謎の固有名詞がてんこ盛りな一節だが、「索虜托跋開」は北魏の道武帝拓跋珪なのは明白。ただ「豫州刺史索度真」「大將軍斛斯蘭」が誰にあたるのかは不明である。『宋書』巻25の天文志三に「是年六月,索頭寇沛土,使偽豫州刺史索度真戍相縣」とあり、巻47の孟懐玉伝に「索虜斛蘭、索度真侵邊,彭、沛騷擾」とあるのも、同じ事実を記録したものだが、『魏書』に対応した記述が見えないために解明は難しい。

豫州刺史索度真」については、『魏書』巻27に伝のある穆崇に取りあえず擬しておく。東晋の義熙元年は、西暦405年で北魏の天賜二年にあたる。穆崇は399年以降に豫州刺史となり、406年(北魏の天賜三年)に死去している。ほかに『魏書』にみえる北魏豫州刺史で該当しそうな人物がいないという消極的な根拠にとどまる。

「大將軍斛斯蘭」は、擬すべき人物も見当たらない。姚薇元『北朝胡姓考』によると、斛斯氏は高車(鉄勒)の斛薛部=斛粟氏の出自であるらしい。『魏書』では、北魏末の斛斯椿まで下らないと、見られない氏族である。