蕭相国と遼の蘭陵郡王
遼(契丹)の国姓を「耶律」といい、后族の姓を「蕭」といって、二大姓を形成していましたが、それはなぜかというと、いろいろ説がありまして。
『遼史』巻116 国語解
耶律氏、蕭氏 本紀首書太祖姓耶律氏,繼書皇后蕭氏,則有國之初,已分二姓矣。有謂始興之地曰世里,譯者以世里為耶律,故國族皆以耶律為姓。有謂述律皇后兄子名蕭翰者,為宣武軍節度使,其妹復為皇后,故后族皆以蕭為姓。其說與紀不合,故陳大任不取。又有言以漢字書者曰耶律、蕭,以契丹字書者曰移剌、石抹,則亦無可考矣。
契丹の国のはじまりの地を「世里」といい、これを漢語に訳すさいに「耶律」としたので、国族はみな耶律を姓とするようになった。ある説では述律皇后の兄の子の名を蕭翰といい、その妹がこれまた皇后となったので、后族はみな蕭を姓とするようになったという。この説は記録と合わないので陳大任は取っていない。またある説では漢字で書かれるところの耶律と蕭は、契丹の字で「移剌」と「石抹」と書かれるというが、また考察に値しないだろう。
『遼史』巻71 列伝第1 后妃
后族唯乙室、拔里氏,而世任其國事。太祖慕漢高皇帝,故耶律兼稱劉氏;以乙室、拔里比蕭相國,遂為蕭氏。
后族は乙室氏と抜里氏だけで、代々国政の任についていた。太祖(耶律阿保機)は漢の高皇帝(劉邦)を慕っていたため、耶律氏は劉氏と兼称し、乙室氏と抜里氏を蕭相国(蕭何)にたとえて、これを蕭氏とした。
『契丹国志』巻23 族姓原始
契丹部族,本無姓氏,惟各以所居地名呼之,婚嫁不拘地里。至阿保機變家為國之後,始以王族號為「橫帳」,仍以所居之地名曰世里著姓。世里者,上京東二百里地名也。復賜后族姓蕭氏。番法,王族惟與后族通婚,更不限以尊卑;其王族、后族二部落之家,若不奉北主之命,皆不得與諸部族之人通婚;或諸部族彼此相婚嫁,不拘此限。故北番惟耶律、蕭氏二姓也。
契丹の部族にはもともと姓氏がなく、おのおの住んでいるところの地名で呼んで、婚家の地里にはこだわっていなかった。阿保機の建国の後にはじめて王族を「横帳」と呼び、居住地の名を世里といって姓にした。世里は、上京の東に二百里の地名。また后族に蕭氏の姓を賜った。
いろいろ議論はあるわけですが、耶律氏は「世里」だか「移剌」だかからきていて、契丹人の基本的な姓となります。国祖の耶律阿保機は漢の高祖劉邦をリスペクトして、自分の漢姓を「劉」にしちゃいました。で、配偶者の一族(乙室氏や抜里氏?)には、漢初の名宰相たる蕭何から取って、「蕭」の姓を与えてしまいました。言い切ってしまうといろいろ危ないのですが、たぶんこんな流れです。
というわけで、遼の皇后のほとんどは蕭姓を名乗っています。例外として初代の述律皇后とかいますが、この人は蕭阿古只や蕭敵魯の姉でして、まだ蕭姓を名乗っていなかっただけの話ですし。あと本当の例外として世宗の甄皇后とかいますが、この人はもとは後唐の宮人で契丹の人ではないわけです。
皇后の一族の外戚の人々も、蕭姓を名乗って遼の国政の枢要の地位につく人が多く出るのですが、ひとつ興味深いことがあります。蘭陵郡王の封号をもつ蕭氏が頻出することです。
蕭撻凜 統和14年(西暦996年)12月
蕭匹敵 太平10年(西暦1030年)11月
蕭撻不也 大康5年(西暦1079年)5月
蕭酬斡 大康5年(西暦1079年)5月
蕭韓家奴 大康5年(西暦1079年)10月
年月が分かっている人はこのくらいですが、ほかにも蕭朴・蕭孝友・蕭排押・蕭恒徳・蕭奉先といった人々が蘭陵郡王の封号を受けています。
蘭陵郡というと、そもそも南朝斉や梁の皇帝の一族の本貫です。南朝斉の蕭道成は南蘭陵郡蘭陵県の人で、蕭何の二十四世の孫を称していましたし。南朝梁の蕭衍は南蘭陵郡中都里の人で、やはり蕭何の後裔ということにされています。
蘭陵蕭氏は蕭何の子孫ということになっていたわけです。南朝の蘭陵蕭氏が本当に蕭何の直系子孫なのか、怪しいものですが。
遼(契丹)の蕭氏についていうと、さらに繋がりが薄く、蕭何の子孫である可能性はまずありません。蘭陵蕭氏の子孫である可能性もほとんどありません。しかし蘭陵蕭氏を気取りたかった事情はあるようです。本人たちも蕭何の子孫などと信じてはいなかったでしょうが、権威づけのためにも蘭陵蕭氏の郡望を利用し、蘭陵郡王の封号を受けることに箔を見出していたと思われます。
ちなみに耶律氏のほうでは漆水郡王の封号を受けた人物が頻出するのですが、これについてはまた稿を改めて、書くかもしれませんし、書かないかもしれません。