獦生墓誌

王連龍『新見北朝墓志集釈』(中国書籍出版社)pp.105-107にある西魏の獦生墓誌を見ています。 父使持節、安北將軍、都督秦州諸軍事、秦州刺史、略陽郡開國公、諱步肱。使持節、安北大將軍、都督南荊州諸軍事、銀青光祿大夫、南荊州刺史、當州大都督、昌陽子…

秦の丞相

『史記』秦本紀によると、秦の武王二年(紀元前309年)に初めて丞相が置かれ、樗里疾と甘茂が左右の丞相となったとされている。『史記』甘茂列伝によると、甘茂が左丞相とされ、樗里子が右丞相とされたとする。1980年に四川省青川県の郝家坪50号墓から出土し…

中国の高層建築

中国の高層建築の起源を漢代、とくに後漢に措定するのは無理のない仮説だろう。当時の高層建築は現存していないが、出土文物としての「陶楼」が後漢以降に現れるからだ。陶楼は陶製のミニチュア楼閣だが、当時に存在した楼閣の姿を写し取ったものと考えられ…

翁仲

かつて書いた「始皇帝の銅人」を承けて、銅人話の変奏をば。始皇帝の鋳造させた巨大な十二金人(銅人、長狄人)は、後漢末の董卓によりその10体まで破壊され、銅銭の資材にされてしまったことは前述した。 『晋書』五行志上は次のように言っている。「景初…

秦の敬公

以下の話にオチはないし、未知の情報は含まれない。 『史記索隠』秦本紀に「又紀年云簡公九年卒,次敬公立,十二年卒,乃立惠公」とあり、同秦始皇本紀に「王劭按紀年云,簡公後次敬公,敬公立十三年,乃至惠公」とある。 史記三家注のひとつ『史記索隠』が…

ローマ帝国の商人「秦論」は孫権と会見したか

『梁書』諸夷伝や『南史』夷貊伝上にみえる秦論は黄武五年に交阯にやってきて、太守呉邈に送られて孫権と会見したことになっているが、孫呉の黄武五年の交阯太守は士燮もしくは陳時であって、呉邈なんて人物の入る余地はないし、この話自体を疑うべきではな…

王朝軍団カラー

『史記』秦始皇本紀に「衣服旄旌節旗皆上黑」というように、秦の始皇帝の頃の秦軍のカラーは黒であった。彩色兵馬俑を見ると、実際にはもう少しカラフルな装備であったようにも思われるが、軍団装備の制式化が進んでいたことは疑いあるまい。 『史記』高祖本…

宇文氏同州考

『周書』孝閔帝紀に「大統八年,生於同州官舍」とある。宇文泰の三男の孝閔帝は西暦542年に「同州の官舎」で生まれた。同書の武帝紀に「大統九年,生於同州」とある。宇文泰の四男の武帝も543年に「同州」で生まれている。同じく宣帝紀に「武成元年,生於同…

安大簡「楚史」の語る楚の先君

安徽大学蔵戦国竹簡「楚史類」については、ここが分かりやすかったのでメモ。https://kknews.cc/n/jlxenvl.html 安大簡「楚史」が『史記』楚世家などの伝世文献などと大きく違っているのは6点。 1.老童(=巻章)は顓頊の子であって、称の子ではない。老…

吉備真備が書いた墓誌

吉備真備が遣唐使で入唐留学していたときに書いたとかいう李訓墓誌を起こしてみました。ネットに落ちてた画像を参考にしたので、字釈はだいぶ間違っているかもしれません。 大唐故鴻臚寺丞李君墓誌銘并序公諱訓字恒出自隴西為天下著姓曾祖亮随太子洗馬祖知順…

Wikipedia記事が初版より劣化する理由(再掲)

悪意や荒らしが原因とはかぎりません。また質の悪い編集者が原因とも限りません。練達の編集者でも誤りを犯すことはあります。人間だもの。 Wikipedia記事が初版より劣化する理由(1/3)悪意や荒らしが原因とはかぎりません。また質の悪い編集者が原因と…

睡虎地秦墓竹簡「編年記」と『史記』秦本紀

睡虎地秦墓竹簡「編年記」については、以前メモっておいたことがあるわけですが、https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20111212/p1『史記』秦本紀と合わせ読んでみようというだけの企画です。1年ごとに西暦、秦簡「編年記」記事、『史記』秦本紀記事の順…

ブックマークカウンターをつけてみた。

全くもって今さらなんですが、 はてなダイアリーからはてなブログに移行するときに「記事についたコメントや、はてなスター、はてなブックマークを、すべてはてなブログに移行できます」https://help.hatenablog.com/entry/import みたいな説明がされていま…

『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほう…

男色の中国史その1

お題のとおり。その1とつけたが、たぶん続きは書かない。 弥子瑕という人物が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分けて一緒に食べたりしていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたとされて罰せられたという「余桃の罪」の故事が『韓非子』説難篇に見える。 『…

「相邦」銘文をもつ文物

ざっとしたメモ書きなので、誤脱があればごめんなさい。戦国期の趙・中山・秦に相邦の官が存在したことが確実視される根拠はこのへんですね。「十八年相邦平国君鈹」(邢台市家蔵)「八年相邦建信君鈹」(北京故宮博物院蔵)「十七年相邦春平侯鈹」(北京故…

韓王信は代王となったのか問題

近刊の渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』(中公新書)p.23に「韓王信を代王として、国に封建する」と書かれています。古くは西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)pp.187-188に「高祖の六年(前二〇一)、すなわち高祖が天下を統一した翌年のこと、韓王信は…

始皇帝に仕えたベトナム人

秦が六国を併呑し、秦王が皇帝と称した。ときに我が交趾郡慈廉県の人である李翁仲は、身長が二丈三尺あった。若いときに郷邑に赴いて力役を供したことがあったが、長官に笞打たれた。そのため秦に入国して仕え、司隷校尉にのぼった。始皇帝が天下を得ると、…

八達と八愷

『晋書』宗室伝の「(司馬)孚の長兄の朗は字を伯達といい、宣帝は字を仲達といい、孚の弟の馗は字を季達といい、恂は字を顕達といい、進は字を恵達といい、通は字を雅達といい、敏は字を幼達といい、ともに名を知られた。故に時に号して八達とするのはこれ…

魯国の中の魯国

『史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績…

geocities.jpの消滅

ジオシティーズのサービス終了にともない、移転が確認できた中国史サイトは次の2つのみ。中国歴史世界http://tongjian88.com/光武帝と建武二十八星宿http://liuxiu.web.fc2.com/ やはり粛清されたサイトが多く、アーカイブを掘るしかないのである。小説で学…

長安の植物園

扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(…

代王嘉はなぜ代王を称したのか

戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の…

連鶏の計

353年、殷浩が北伐したとき、江逌がその下で長史をつとめた。殷浩は洛陽を占領したものの、姚襄の裏切りで危地に陥った。殷浩が江逌に姚襄を撃つよう命じると、江逌は鶏数百羽を集めて長繩で連ね、その足に火を繋いだ。鶏たちは解き放たれると、姚襄の陣営に…

6~7世紀の嶺南とかベトナムとか

隋の大業十二年に反乱起こした「高涼通守洗珤徹」(『隋書』煬帝紀下)の洗珤徹と、唐初の「武德三年,廣新二州賊帥高法澄、洗寶徹等並受林士弘節度」(『旧唐書』馮盎伝)の洗宝徹が同一人物というのは、別に目新しい話でもなく、たぶん洗夫人の関係者とい…

李信は燕の太子丹を討ち取ったのか

ここでは久しぶりに書く気がしますが、別に中国史趣味を忘れてしまったわけではなく、ツィッターあたりでちょくちょく書いていました。ただツィッターでは長文がつらいので、今回はこちらで書きます。 以下は首級がどうとかいう話をしているので、そこが苦手…

唐の最盛期より後漢の領域が広いとみなされている?件

史上最も領土が大きかった帝国トップ20(哲学ニュースnwk) http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5047264.html このときも思ったのですが、唐の最盛期より後漢が広いってことはないはずなんですね。帝国の最大領域一覧(Wikipedia日本語版) https://j…

秦の大将軍について

キングダムで信・王賁・蒙恬は大将軍になれますか?(Yahoo!知恵袋) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11162587416無粋な歴史の話をすると、そもそも秦に大将軍の官がなかったんじゃないかという深刻な疑いがありましてな。『通典…

「邑姜」の墓出土か

陝西省宝鶏市の石鼓山墓地4号墓の被葬者が、太公望の娘で、周の武王の后である「邑姜」ではないかという説が出ています。 http://ex.cssn.cn/wh/wh_kgls/201607/t20160714_3121143.shtml 4号墓の副葬品から被葬者は女性らしいこと。4号墓と相似し、密接な…

秦信梁軍

趙の慶舎は『史記』趙世家に2カ所出てきます。孝成王十年の条の「趙將樂乘、慶舍攻秦信梁軍,破之」という記述と、悼襄王五年の条の「慶舍將東陽河外師,守河梁」という記述です。ちなみに後者について、岩波文庫の『史記世家中』P177が「慶舎は東陽に在り…