秦信梁軍

趙の慶舎は『史記』趙世家に2カ所出てきます。

孝成王十年の条の「趙將樂乘、慶舍攻秦信梁軍,破之」という記述と、悼襄王五年の条の「慶舍將東陽河外師,守河梁」という記述です。

ちなみに後者について、岩波文庫の『史記世家中』P177が「慶舎は東陽に在り、黄河の南岸の地の兵をひきいて、黄河の梁(はし)を守っていた」と訳しているのは誤訳でしょう。ここは「慶舎は東陽と河外の地の兵をひきいて、黄河の梁(はし)を守っていた」と訳すべきでしょう。三家注のひとつ『史記正義』は、「東陽は(唐代の)貝州に属し、黄河の北岸にある」「河外は黄河の南岸にある(唐代の)魏州の地である」としています。『史記』本文では、ふたつの地名が並列されているので、慶舎はふたつの地の「師」を「將」(ひき)いたと読むべきです。

さて本題ですが、前のほうの「趙将の楽乗と慶舎が秦の信梁の軍を攻め、これを破った」件についてです。『史記集解』は、徐広を引いて「年表のいう新中軍である」としています。『史記索隠』は、「信梁は秦将である」としています。『史記正義』は、「信梁はおそらく王齕の号である。秦本紀が『昭襄王五十年、王齕が張唐に従って寧新中を抜き、寧新中は安陽と名を改めた』というのは、今(唐代)の相州理県のことである。年表が『韓と魏と楚が趙の新中の軍を救い、秦は兵を罷めた』というのがこれである」としています。

史記』秦本紀の昭襄王五十年の条に「即從唐拔寧新中,寧新中更名安陽」という記述と、『史記』六国年表の魏の安釐王二十一年の条に「韓魏楚救趙新中軍,秦罷兵」という記述が確認できます。『史記正義』の説ももっともに思えるわけですが、しかしこれは年表上では1年ずれているのです。秦本紀のいう王齕が寧新中を攻め落とし、安陽と改名した翌年、六国年表と趙世家のいう秦軍が撃退されるという整理は、それなりに筋が通ってはいます。しかし信梁が王齕の号であるという推測は、かなり怪しいものともなるでしょう。

ええと、何が言いたいんでしたっけ?あっそうそう、慶舎は伝世文献的には実在するよという話でした。