中国史ポリコレを考える

 「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がなかった頃から中国の歴史的呼称にはさまざまな批判が加えられてきたもので、とくに中華思想に関わる語に関してはやや慎重に扱われてきたとは言える。
 現代では「四夷」すなわち「東夷」・「南蛮」・「西戎」・「北狄」の語を括弧抜き(引用符抜き)で使用するのは、ためらわれるものがあるだろう。そうした語を平文で使用すれば、エスノセントリックな中華思想を肯定しているとみなされうるからである。
 一部の保守派が好んで使用する「支那」呼称なども、ポリコレ的な土俵の上にあるとはいえる。かれらに言わせれば「中国」呼称こそ中華思想を肯定する文脈にあり、使用が避けられるべきだというのである。ただ1946年の外務省「支那の呼称を避けることに関する件」に「支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふもの」とみるように、日本社会の大勢は「社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策」としてのポリコレに従って、支那の呼称を避け、中国呼称を選択しているとも言える。
 中国から見た周辺勢力の呼称「匈奴」・「鮮卑」・「倭」などは中華思想にもとづく蔑称ではないかと指摘されて久しいが、代替呼称が普及する様子はない。たとえば「蠕蠕」・「芮芮」・「茹茹」・「蝚蠕」などと正史で複数の呼称をもつモンゴル高原の勢力について、『通鑑』の「柔然」呼称が普及しているが、虫のうごめく「蠕」字が避けられたというより、常用外漢字が避けられたというほうが実際かもしれない。ただモンゴルに対して「蒙古」という旧称の使用が避けられる傾向にある程度である。呼称の見直しが議論されることもそう多くはなく、史家個人がその存念どおりの呼称を使用しており、歴史的呼称の変化はほとんど世代交代に等しい。冒頭に「やや慎重」と述べたとおりで、ポリコレ急進派が古い用語を狩りつくすというような懸念は、こと中国史界にあっては杞憂だろう。
 やや脱線になるが、ポリコレは言葉狩りだとみなすような単純な見解に亭主は与さない。ポリコレが実際の現象としては言い換えとして現れる以上、そこには新語が生まれているのであり、文化的にはむしろ新たなミームが発生しているといえる。旧語も平文常用のものとして避けられているだけで、括弧つき引用は自由であり、抹殺されているわけではない。そもそもポリコレ以前から言葉は変化するものであり、旧語と新語の交代は有史以来続いているのだ。ポリコレを敵視しても「トルコ風呂」や「スチュワーデス」が常用の語として復活することはない。
 話を歴史呼称に戻すなら、「則天武后」を「武則天」と呼んだり、「元朝」を「大元ウルス」と呼称したりするのも、そこにポリコレ的な理屈がつくとしても、旧語と新語の交代であり、歴史家の世代交代でもあるだろう。
 ついでに私見を述べておくと、亭主が憎んでやまない中国史語りの悪習は、非漢民族を「異民族」とひとくくりに呼ぶことであり、見直されるべきと考えている。



 さて、語ることはまだありそうだが、脱線を続ける話の収拾がつかないのが見えてきたので、締めに入らせてもらおう。E・H・カーが「歴史家と事実の間の相互作用の不断の過程」といい、「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」といったように、歴史の語り口は変化していくものであるし、歴史的呼称も不変のものとはならないだろう。ポリコレを問題視するにしても、剣と天秤を持つ「正義」が特定の誰かの専有物でない以上は、不断の議論によって暫定解を見出し続けていくしかない。

韓王安の捕縛と韓の滅亡

 荊州胡家草場漢簡「歳記」に
「十六年,始為麗邑,作麗山。初書年。破韓得其王,王入吳房」(1538号簡)
「十七年十二月,太后死。五月,韓王来。韓入地于秦」(1535号簡)
といった記述があり、紀元前231年(始皇16年)に秦が韓を破り、その王を捕らえて呉房(不詳)に入れ、紀元前230年(始皇17年)5月に韓王が来朝して韓の地が秦に編入されるという歴史認識が示されています。これは『史記』秦始皇本紀の「十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川」とも、同書六国年表の「十七 內史勝擊得韓王安,盡取其地,置潁川郡」や「九 秦虜王安,秦滅韓」とも異なり、韓王の捕縛と韓の滅亡が2年2段階にまたがっています。これは睡虎地秦墓竹簡「編年記」の「十七年,攻韓」とも異なる認識のようです。

斬白蛇剣

 秦の始皇帝阿房宮や酈山陵(始皇帝陵)の造営のために隠宮徒刑の者七十万人あまりを動員した(『史記』秦始皇本紀始皇三十五年条)。ちなみに隠宮とは従来は宦官のこととされていたが、隠官の誤写で刑期を終えた人を指すという新説が生まれている。
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20080125/p3

 ときに漢の高祖劉邦が泗水の亭長だったころである。劉邦は沛県のために酈山に刑徒を送ることとなったが、刑徒の多くが道中で逃散してしまった。劉邦は豊邑の西の沢中に達すると、とどまって酒を飲み、残っていた刑徒を夜間に解放して、「おまえたちは行ってしまえ。俺もここから逃げるとしよう」といった。刑徒の中の壮士で随従を願い出る者が十数人いた。劉邦は酒を飲み、夜のうちに沢中を進み、一人に先を進ませていた。先行させていた者が帰ってきて「前に大蛇がのたくっています。引き返しましょう」と報告した。劉邦は酔っていたので、「壮士が行くのに、何を恐れることがあろうか」といって前進し、剣を抜いて蛇を斬った。蛇は両断され、道は開けた。劉邦はそのまま数里行くと、泥酔して寝てしまった。後にある人が蛇のいたところにやってくると、ひとりの老婆が夜に泣いていた。人がその訳を問うと、老婆は「人がわが子を殺したので、泣いているのだ」と答えた。人が「婆さんの子はどうして殺されたのか」と問うと、老婆は「わしの子は白帝の子で、変化して蛇となって道に横たわっていたが、今さっき赤帝の子に斬られてしまった。そのため泣いているのだ」と答えた(『史記』高祖本紀および『漢書』高帝紀上)。劉邦が大蛇を斬った話であるが、劉邦が赤帝の子で、大蛇は白帝の子だというオカルトな解説が老婆の話によって後付けされている。

 さて、前置きが長くなったが、今回は劉邦が蛇を斬った剣についての話である。この斬蛇剣には次のような由来が伝わっている。

 劉邦の父の太公が若かったころ、長さ三尺の一本の刀を佩いていた。刀の表面の銘字は読むことができなかったが、殷の高宗(武丁)が鬼方を討伐したときに作られたものと伝わっていた。太公が豊・沛の山中に遊んだとき、狭い谷に寓居している鍛冶職人に会った。太公はそのそばで休息して、「何の器を鑄ているのか」と訊ねた。職人は「天子のために剣を鑄ているので、他言してはいけない」と笑っていった。さらには「公の佩剣は雑味があるが、鍛冶で直せば神器となって天下を平定することができるだろう。昴星の精が木気を衰えさせ、火気を盛んにするのを助ける。これは異兆である」といった。太公が了解して爐中に匕首を投げ入れると、三頭の動物を殺して犠牲に祭った。職人は「いつこれを得たのか」と訊ねた。太公は「秦の昭襄王のときにわたしが畦道を進んでいたところ、ひとりの野人が殷のときの霊物だといってくれたのだ」と答えた。職人は完成させた剣を持って太公に与えた。太公が劉邦に与え、劉邦が佩いて白蛇を斬ったのがこの剣である。劉邦が天下を平定すると、剣は宝物庫に仕舞われたが、蔵を警備する者は龍蛇のかたちをした雲のような白気が戸から出るのを目撃した。呂后がこの宝物庫を霊金蔵と改名した。恵帝が即位すると、この宝物庫は禁裏の兵器を貯蔵していることから、名を霊金内府といった(『三輔黄図』巻之六)。

 高祖劉邦が白蛇を斬った剣は、剣の上部に七采の珠と九華の玉がつけられていた。剣を収納した箱は、五色の琉璃で装飾されて、室内を照らした。剣は十二年に一回磨かれるだけだったが、その刃はいつも霜雪のようであった。箱を開けて鞘走らせると、風気と光彩が人を照射した(『西京雑記』巻一)。

 斬蛇剣は前漢後漢・三国魏・西晋の四朝およそ五百年にわたって保管された。おそらく後漢のときに長安から洛陽に移されたのであろう。

 西晋恵帝の元康五年(西暦295年)閏月庚寅、洛陽の武庫に火がかかった。張華は反乱の発生を疑い、まずは守備を固めるよう命じ、その後に消火にあたった。これにより累代の異宝である王莽の頭骨・孔子の履物・漢の高祖が白蛇を断った剣および二百万人器械が一時に焼尽した(『晋書』五行志上)。

孝悌力田に爵位を賜う

 ぼく梁の武帝蕭衍。孝悌力田に爵一級を賜うのが大好き。
梁書武帝紀中天監十三年二月丁亥条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀中天監十八年春正月辛卯条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下普通元年春正月乙亥朔条「孝悌力田爵一級」
梁書武帝紀下普通四年二月乙亥条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下大通元年春正月乙丑条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下中大通元年正月辛酉条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下中大通三年春正月辛巳条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下中大通五年春正月辛卯条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下中大通六年春二月癸亥条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下大同三年春正月辛丑条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下大同五年春正月辛未条「詔孝悌力田及州閭郷黨稱為善人者,各賜爵一級」
梁書武帝紀下中大同元年夏四月丙戌条「孝悌力田為父後者賜爵一級」
梁書武帝紀下太清元年正月辛酉条「孝悌力田賜爵一級」
梁書武帝紀下太清元年夏四月丁亥条「孝悌力田為父後者賜爵一級」
 ここまで同様の民爵授与が記録されてる皇帝は他に類例をみないと思われる。なお漢代には孝悌(孝弟)・力田は三老と並ぶ郷官(郷邑レベルの指導者)の称だったが、郷邑レベルの有徳者に賜与される名誉称号となり、後には貢挙に孝悌力田科(孝弟力田科)が置かれて官僚の採用科目ともなっている。上記の例でいけば、梁の武帝は有徳者の顕彰と民爵授与を通じて孝順勧農の徳治を進め、郷邑社会の醇化を図ろうとしたのだろう。

董卓による破壊的インフレ

 董卓が五銖銭を改鋳して小銭を作り、これが粗悪な通貨だったことから、高インフレを招いたことは数多く言及されている。だが董卓が鋳潰したのは五銖銭だけではない。
 『三国志』魏書董二袁劉伝では「悉椎破銅人、鐘虡,及壞五銖錢。更鑄為小錢」といい、銅人・鐘虡・五銖銭を破壊して、小銭を発行したことがみえる。銅人とは始皇帝の鋳造した十二金人のことで、以前に
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20120306/p1
で言及したことがある。董卓はその十二体のうち十体を破壊している。鐘虡とは編鐘を吊るす棚のことだが、ここでは編鐘そのものとみたほうがいいだろう。
 『晋書』食貨志には「悉壞五銖錢,更鑄小錢,盡收長安及洛陽銅人飛廉之屬,以充鼓鑄」とある。長安および洛陽の銅人・飛廉というから、始皇帝の鋳造した銅人のみではなく、他の銅像も破壊していたとみるべきだろう。飛廉は別名に蜚廉ともいう神獣で、ここではその神獣の銅像を指している。董卓は五銖銭のみならず文化財をも破壊して銅を調達し、小銭を発行していたのである。
 小銭発行による影響を見てみよう。『三国志』魏書董二袁劉伝によると、「于是貨輕而物貴,穀一斛至數十萬。自是後錢貨不行」といい、穀物一斛(一石)が数十万銭に達し、銭貨が通用しなくなるというハイパーインフレに陥ったらしい。『晋書』食貨志では、董卓の死後に李傕と郭汜が長安で紛争していた頃に「是時穀一斛五十萬,豆麥二十萬,人相食啖,白骨盈積,殘骸餘肉,臭穢道路」という惨状を記録している。また同志では「及獻帝初平中,董卓乃更鑄小錢,由是貨輕而物貴,穀一斛至錢數百萬」ともいい、一桁高い数字も見えている。

樊噲冠

 『後漢書』輿服志下に「樊噲冠」なるものの解説がある。

樊噲冠,漢將樊噲造次所冠,以入項羽軍。廣九寸,高七寸,前後出各四寸,制似冕。司馬殿門大難衞士服之。或曰,樊噲常持鐵楯,聞項羽有意殺漢王,噲裂裳以裹楯,冠之入軍門,立漢王旁,視項羽

 漢の将軍の樊噲が作らせた冠で、形は冕冠に似ているという。司馬殿門を警備する衛士がこれを着用するらしい。一説に鴻門の会で樊噲が劉邦を守ったときに着用していたという。

 『史記項羽本紀の鴻門の会の場面では「噲即帶劍擁盾入軍門」とあって、樊噲が剣と盾を持っていることが知れるが、冠の描写はない。樊噲列伝では「樊噲在營外,聞事急,乃持鐵盾入到營」といい、鉄盾を持っていたことが知れるのみである。

 樊噲冠の記述は『晋書』輿服志、『宋書』礼志、『南斉書』輿服志、『隋書』礼儀志一にも見え、六朝時代に殿門衛士が着用していたことが確認できる。

中国の記録にみえる銅鼓

 銅鼓は日本では東京や九州の国立博物館などで実物を見ることができるが、中国南部から東南アジアにかけて存在していた楽器である。
 『後漢書』馬援伝に「援好騎,善別名馬,於交阯得駱越銅鼓,乃鑄為馬式,還上之」とあり、ヴェトナムの徴側・徴弐の乱を鎮圧して凱旋した馬援が駱越の銅鼓を鹵獲し、これを鋳潰して馬具を作って光武帝に献上したことが見える。
 『晋書』食貨志の東晋武帝太元三年(西暦378年)の詔に「廣州夷人寶貴銅鼓,而州境素不出銅,聞官私賈人皆於此下貪比輪錢斤兩差重,以入廣州,貨與夷人,鑄敗作鼓。其重為禁制,得者科罪」とあり、どうやら広州の少数民族が銅銭を鋳潰して銅鼓を製作していたらしく、これを禁制とした記録が残っている。
 『陳書』欧陽頠伝に「欽南征夷獠,擒陳文徹,所獲不可勝計,獻大銅鼓,累代所無,頠預其功」とあり、南朝梁の将軍の蘭欽が南方の「夷獠」を征討し、陳文徹を捕らえ、大銅鼓を鹵獲して献上したことが見える。『梁書』蘭欽伝では陳文徹は「俚帥」とされている。
 『陳書』華皎伝に「又征伐川洞,多致銅鼓、生口,竝送于京師」とあり、華皎は天嘉年間に湘川の少数民族を討って、銅鼓や生口を鹵獲し、建康に送ったらしい。
 『隋書』地理志下の林邑郡の条に「來者有豪富子女,則以金銀為大釵,執以叩鼓,竟乃留遺主人,名為銅鼓釵」とある。ヴェトナム南部で大釵と鼓を合わせて銅鼓釵と呼んでいたことを記録している。
 『旧唐書』西南蛮伝の東謝蛮の条や『新唐書』南蛮伝下の両爨蛮の条にも銅鼓が見え、中国西南の少数民族も銅鼓を用いていたらしい。
 『隋書』音楽志下の天竺の条には「樂器有鳳首箜篌、琵琶、五弦、笛、銅鼓、毛員鼓、都曇鼓、銅拔、貝等九種,為一部」とある。『旧唐書』音楽志や『新唐書』礼楽志にも同様の記述がみえる。銅鼓は天竺(インド)にまで広がっていたのだろうか。
 『宋史』にも銅鼓を鹵獲した記事はまだ見えるが、『明史』や『清史稿』の銅鼓はもっぱら地名として見えるのみである。