趙高非宦官説

『東方』324号(2008年2月号)に以下のような文章がありました。
角谷常子「秦末社会の息づかいが蘇る」

例えば、趙高非宦官説。従来『史記蒙恬列伝の「趙高の昆弟数人、皆隠宮に生る」を根拠として趙高は宦官だったとされてきた。しかし雲夢秦簡にみえる「隠官」から、『史記』の「隠宮」は「隠官」の誤写であることが馬非百氏によって指摘された。それが張家山漢簡二年律令の出現によって、隠官とは「刑期を終えた人が働く場所(刑満人員工作的地方)」あるいは「刑期を終えた人の身分」をいうのであって、宮刑や去勢とは無関係であることが明らかになり、趙高非宦官説となったわけである。

そういえば藤田勝久『項羽と劉邦の時代』(講談社選書メチエ)P73にもこんな文章があったけど、スルーしていたような気がします。

趙高という人物は、『史記蒙恬列伝の簡単な伝記によると、秦に滅ぼされた趙の王室につらなる一族であった。そこでは兄弟たちとともに、宦官の家系である「隠宮」に生まれ、母も刑罰を受けたために、代々卑賤な身分であったことになっている。しかし里耶秦簡などの新資料によって、秦代において「隠官」という身分のあったことがわかるようになった。隠官とは、刑罰をうけたあと官府にいる者たちのようで、徒隷と一緒に労役にかりだされている。始皇帝の三五(前二一二)年には「隠宮と徒刑の者」七十余万人を分けて、阿房宮と驪山を造営していたが、これも隠宮ではなく、「隠官」の労働とする説がよいであろう。とすれば李開元氏が推測するように、かれは必ずしも宦官ではなく、滅亡した趙の一族につながるため、隠官となって卑賤とみなされていたというのが実情かもしれない。

たぶんネット上のどっかにこの趙高非宦官説の解説が落ちてるだろうなと思ったら、やっぱりありました。
趙高(中国歴史五千年)
だいたい上と似たような解説が書いてあるのですが、『史記』李斯列伝の「夫(そ)れ高、故(もと)は宦人なり」(そもそも趙高はもとは宦官であった)という部分についても、秦漢のころの「宦」は内廷に任職した人間を指す言葉で、宦官を意味してないよということが説明されています。

以下私見ですが、『史記』秦始皇本紀の「隱宮徒刑者七十餘萬人、乃分作阿房宮、或作麗山」のところは、宦官(隠宮)と徒刑者を七十余万人集めたとするより、刑期を満了した者(隠官)と徒刑者を七十余万人集めたと考えたほうがたしかに自然に読めますね。「隠官」を「隠宮」って間違えて写したよというのは説得力を感じます。

史記蒙恬列伝の「趙高昆弟數人、皆生隱宮」のところは、従来そもそも三家注からして趙高が宦官なのは疑いなしの見解だったわけで。裴駰『史記集解』では、「徐広が『宦者のことだ』って言ってるよ〜」ですし。司馬貞『史記索隠』では、「劉氏が『たぶんその父が宮刑を犯し、妻子が官奴婢に落とされて、妻が後に野合して生んだ子がみな趙姓を名乗ったんだろう。そろって去勢したので「兄弟は隠宮に生まれた」と言っているのだ。「隠宮」とは、宦官を指す言葉だ』って言ってるよ〜」ってなわけです。
ここのところ、我らが滝川亀太郎先生の『史記会注考証』は、中井積徳を引いて「趙高には女壻(むすめむこ)の閻楽がいたから、生まれたときに去勢したわけではないぴょん」って書いてます。惜しい、もう少しで非宦官説になったかもしれないっ!どっちにしろずーっと趙高は宦官だというのが疑われることなくきたわけです。
ここの本文がもともと「隠官」だったのを誤写して「隠宮」にされてしまって、以後の解釈がずっと趙高は宦官ってことになったのだとするなら、一字の誤字によって趙高の属性がずいぶんと長い間にわたって誤られてきたことになりますね。