張唐

史記』秦本紀によると、秦の昭襄王四十九年(紀元前258年)の十月に将軍張唐が魏を攻めている。さらに五十年(紀元前257年)十月には張唐が鄭を攻め、これを抜いている。十二月には王齕が張唐の下で寧新中(安陽)を落としている。
史記』樗里子甘茂列伝によると、秦の始皇帝が剛成君蔡沢を燕に対する使者として派遣し、三年して燕王喜が太子丹を人質として秦に入国させている。秦は張唐を燕の相として派遣しようとしたが、張唐は文信侯呂不韋の説得にも応じず、燕に行こうとしなかった。張唐は甘羅の説得により意を翻し、燕に行く準備をした。しかしこののち甘羅が趙におもむいて趙に燕を攻撃させる工作をおこなったため、情勢は一変する。この甘羅の工作の結果、趙は河間の五城を秦に割譲し、燕の上谷の三十城を攻め取った。太子丹は趙との約定により燕に帰国させられた。これとほぼ同じ話は『戦国策』秦策五にも見える。秦と趙が結んで燕を攻撃したことで、おそらくは張唐を燕の相とする計画も沙汰やみになったと思われる。張唐を燕の相としようとした時期は、文信侯呂不韋が秦の相であった時期であり、かつ直後に趙が燕を攻めたということで、『史記』趙世家も参照するなら趙の李牧が燕を攻撃した趙の悼襄王二年(紀元前243年)の直前である。ちなみに『史記』燕召公世家には、燕太子丹が燕王喜二十三年(紀元前232年)に秦から逃げ帰ったという記述がある。太子丹が2回秦の人質になったという解釈も可能であるが、樗里子甘茂列伝の記述になんらかの誤りがあると考えるのが自然かもしれない。
余談だが、樗里子甘茂列伝に呂不韋が張唐のことを張卿と呼ぶ場面がある。『史記索隠』は卿を張唐の字と注釈している。『史記正義』は張唐が卿となったために張卿と呼んでいるという。『史記会注考証』は卿を美称とみなしている。いずれの説が正しいかは分からない。張唐が死去した時期については、『史記』や『戦国策』などの文献史料から知ることはできない。