姜子牙

史記』留侯世家に張良が黄石公から『太公兵法』を受け取る場面がある。『史記正義』が梁の阮孝緒『七録』を引いて「『太公兵法』は一帙三巻。太公は姜子牙といい、周の文王の師で、斉侯に封じられた」とここを注釈している。日本では太公望として知られ、中国では姜子牙として知られる人物であるが、ここから姜子牙の称は遅くとも南北朝時代には現れていたと思われる。

また『史記索隠』が『史記』斉太公世家の冒頭を注釈して、「譙周は『姓は姜、名は牙という。炎帝の末裔で、伯夷の子孫であり、四岳を掌握するのに功績があって、呂に封じられた。子孫はその封により姓とした。尚はその後裔である』と言っている。調べると、後に文王がかれを渭浜で得たとき、『わが先君太公はあなたを望んで久しいかな』と言ったので、そのため太公望と号した。おそらく牙は字であり、尚はその名である。後に武王は師尚父と号した」と言っている。譙周は三国蜀漢の人である。太公望=姜子牙の呼称問題は複雑で諸説あるが、斉太公の名もしくは字を牙あるいは子牙とする説は、わりと古くまで遡るのかもしれない。

ただ斉太公の名もしくは字として真物と思いがたいのは、斉の霊公(在位前581-前554)と仲姫のあいだの子に子牙という人物がおり、前出の『史記』斉太公世家にも出てくるからである。斉太公は春秋の斉において最重要の国祖であり、避諱を無視して公子に命名するとは考えにくい。おそらく姜子牙の称は漢代以降に作られたものなのではないか。