始皇帝の銅人

秦の始皇帝の鋳造させた銅人12体は、金人・金狄人などとも別称され、400年あまりを閲した。

紀元前221年(始皇二十六年)、天下の兵器が咸陽に集められて、鐘鐻と金人12体が鋳造された(『史記』秦始皇本紀)。これらは臨洮に現れたという長人をモデルとしたものである(『史記索隠』)。高さは五丈、足のサイズは六尺。みな夷狄の服を着ていた(『漢書』五行志)という。また高さは三丈、重さは小さなものでも千石あり、「皇帝二十六年初兼天下改諸侯為郡縣一法度同度量」の銘文を李斯が篆し、蒙恬が書した(『三輔黄図』巻一)ともいう。阿房宮の殿前に置かれ、漢代になって長楽宮の大夏殿の前に移された(『三輔旧事』)。董卓が銅人・鐘虡・五銖銭を破壊し、小銭・大五分を鋳造させた(『三国志』魏書董二袁劉伝)。董卓の破壊により銅人の残りは2体となり、清門の裏に移された。魏の明帝が洛陽に運ばせようとしたが、重みのため霸城で動かせなくなった。後に石虎が鄴にうつし、苻堅がまた長安に戻して溶かした(『関中記』)ため、歴史からその姿を消すこととなる。