『史記』蘇秦列伝で蘇秦が魏の襄王に説いたことばに「蒼頭二十萬」の一節がある。『史記索隠』はここを「謂以青巾裹頭以異於衆、荀卿魏有蒼頭二十萬是也(青い頭巾を頭につけて多勢と異なるものをいう。荀子が『魏に蒼頭二十万あり』といったのがこれである)」と注釈している。
また『史記』項羽本紀に「少年欲立嬰便為王、異軍蒼頭特起(若者たちは陳嬰を立てて王としようとし、別軍の蒼頭が特に起兵した)」といい、『史記集解』は応劭の言を引いて「蒼頭特起、言與眾異也。蒼頭、謂士卒皁巾,若赤眉青領、以相別也(蒼頭特起とは、多勢と異なることをいう。蒼頭とは兵士の黒っぽい頭巾のことをいい、赤眉や青領のように、格好を区別したものである)」と注釈している。
ところが、『後漢書』光武帝紀の建武五年の条に「彭寵為其蒼頭所殺、漁陽平(彭寵がその蒼頭に殺され、漁陽が平定された)」とあり、李賢注は「秦呼人為黔首、謂奴為蒼頭者、以別於良人也(秦が人を黔首と呼び、奴を蒼頭といったのは、良人を区別するためである)」と注釈している。
これ以後の「蒼頭」の用例はそのほとんどが奴隷を指すものとなる。もとは戦国魏の兵士集団を指す語句だった蒼頭が、いつのまにか奴隷を指す語に変わったわけだが、『後漢書』李賢注を信じるなら、その原因は秦にあるということになる。