『建康実録』の倭国記事

巻十
「(義熙九年)十二月高句麗倭國及西南夷銅頭太師並獻方物」、413年
巻十二
「(元嘉二十年十二月)百濟倭國使使貢獻」、443年
「(元嘉二十八年)秋七月甲辰進安東將軍倭王綏濟為安東大將軍」、453年
巻十三
「(大明四年十二月)丁未倭國遣使貢獻」、460年
巻十四
「(昇明元年)冬十一月丁酉倭國遣使朝貢」、477年
「(昇明二年)五月戊午以倭國王武為安東大將軍」、478年
「是歳(昇明二年)蠕蠕國高麗倭國並遣使朝貢」、478年
巻十六
「倭國在帶方東南大海中島上漢末以女人立為王」
巻十九
「天嘉二年正月高麗倭國及百濟並遣使貢方物」、561年

以下おまけ




内史騰=辛勝説

 鶴間和幸『新説始皇帝学』(KANZEN)が出ています。ムック本の体裁なのですが、秦の統一前後の時代について近年の出土史料にもとづく新研究をフォローしているので、かなり読み応えのある内容です。
 さて、これのp.172に「中国の歴史家の馬非百は、騰について『元和姓纂』『通志』に見える、秦の将軍辛騰のことではないかとしています」とありました。内史騰=辛騰とする説があるのですね。初めて知りました。さて辛騰とは、誰でしょう。
 『通志』巻26氏族略第二に「秦有將軍辛騰家中山苦陘曾孫蒲漢初以豪族徙隴西狄道」とあります。訳をつけるなら「秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県(現在の河北省定州市邢邑鎮)に家があった。曽孫の辛蒲が漢初に豪族として隴西郡狄道県(現在の甘粛省臨洮県の西南)に移住した」といったところでしょう。
 『通志』は南宋の鄭樵の著した制度史書です。辛騰についての初出は、おそらく唐代後期に書かれた『元和姓纂』のほうでしょう。
 『元和姓纂』巻3には「秦有将軍辛騰家中山苦陘曾孫蒲漢有辛武賢」とあります。訳をつけるなら「秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県に家があった。曽孫は辛蒲。漢に辛武賢があった」といったところです。
 辛武賢は『漢書』宣帝紀によると、紀元前61年に酒泉太守から破羌将軍となった人です。同書に立伝されている辛慶忌の父ですね。辛騰が前漢の武臣である辛武賢・辛慶忌父子の祖先として唐宋以降の史料にはじめて名と貫籍だけ記録された存在であるとするならまともにはあつかえません。古今東西、後世の系譜史料ほどいい加減なものはないからです。
 ただし、内史騰=辛騰の説はここからが本番です。
 『資治通鑑』巻6に「十七年内史勝滅韓」とあるように、内史騰は内史勝と書かれることがあります。記事の内容からして『資治通鑑』の内史勝が『史記』秦始皇本紀始皇十七年条の内史騰と同一人物であることを疑う人はまずいないでしょう。
 ここで『史記』秦始皇本紀始皇二十年条にある「而使王翦、辛勝攻燕」の辛勝が注目されます。内史騰が内史勝と表記されることがあるなら、辛騰と辛勝も同一人物ではないのか。そして内史勝は辛勝の官名による別表記であり、内史騰(内史勝)は辛勝であり、辛騰ではないのかというのが、内史騰=辛勝説あるいは内史騰=辛騰説です。とりあえず説明としてはハマっているかと思いますし、事実である可能性は否定できません。ただ確証を得るには史料が少なすぎるでしょうが。

北魏と百済の戦争はあったのか

 5世紀後半に北魏百済のあいだに戦争があったとする史書の記述がある。
『南斉書』東夷伝
「是歳,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之」
(この年、北魏は騎兵数十万を発して百済を攻め、国境地帯に進入した。百済王牟大は将軍の沙法名・賛首流・解礼昆・木干那に兵を率いさせて派遣し、魏軍を襲撃して、これを大いに破った)
 「是歳」は文脈的には南朝斉の「建武三年」、つまりは西暦496年のこととなる。北魏の孝文帝の太和20年に相当する。ただこの前段に文章の脱落があるのではないかという議論があり、はっきりはしていない。

『建康実録』巻十六
「永明二年,魏虜征之,大破百濟王牟都」
(永明二年、魏軍が百済を討ち、百済王牟都を大いに破った)
 南朝斉の「永明二年」は西暦484年のこととなる。北魏の孝文帝の太和8年に相当する。ここの「百濟王牟都」は「百濟王牟大」の誤りではないかとの指摘もある。

資治通鑑』巻一百三十六
「魏遣兵擊百濟,為百濟所敗」
(魏が兵を派遣して百済を撃ち、百済に敗れた)
 永明六年の記事である。西暦488年のこととなる。北魏の孝文帝の太和12年に相当する。

 これらの戦いは実際にあったのだろうか。北魏東魏の断代史である『魏書』は、対百済の戦闘行動をいっさい記録していない。百済は主に南朝と通交していたので、広く見れば北魏の敵ではあろうが、そもそも通説的には北魏百済は国境を接していない。海路を取れば別だが、大軍を渡海させるような艦隊を北魏保有していない。

 ここで登場するのが遼西に百済の飛び地領土があったという説である。
宋書東夷伝
「其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」
(その後高驪が遼東をほぼ領有し、百済が遼西をほぼ領有した。百済の治所は晋平郡晋平県といった)
梁書』諸夷伝および『南史』夷貊伝下
「晉世句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡」
(晋代に句麗が遼東を領有すると、百済もまた遼西・晋平二郡の地に拠り、自ら百済郡を置いた)

 5世紀後半の遼西に百済の領土があったとするなら、北魏百済のあいだの戦争をいちおう説明可能である。しかしこれはほとんど信用できない。仮に晋代の一時期に百済の遼西領有に実態があったのだとしても、4世紀後半には後燕に、5世紀初頭には北燕に遼西は領有されている。西暦436年に北魏の娥清・古弼らの遠征によって北燕が滅ぼされ、遼西は北魏の領有に帰している。西暦460年(和平元年)に北魏の文成帝は遼西に巡幸している(『魏書』礼志四之一)し、西暦497年(太和21年)に陸叡が獄死するとその妻子が遼西に移されていたりする(『魏書』陸叡伝)。5世紀後半の遼西に百済の領土が存在したなら、このようなことは不可能だったろう。南朝系史料に記録された北魏百済のあいだの戦争は、南朝百済の外交関係から生まれた虚妄だったとみるべきだろう。

武媚娘曲と武則天

 某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。

 『旧唐書』后妃伝上に「天后未受命時,天下歌武媚娘」とあり、『新唐書』后妃伝上に「天后世,歌武媚娘」とあり、『新唐書』五行志二に「永徽後,民歌武媚娘曲」とあって、武媚娘という曲が唐の高宗期以降に歌われたことが分かります。

 ただ武媚娘の原曲が則天と関係ないのは間違いありません。『旧唐書』と『新唐書』の李綱伝によると、隋の開皇末年に皇太子楊勇の宴会で太子左庶子の唐令則が琵琶を鳴らして武媚娘の曲を歌っています。李綱は「淫声」としてこれを非難しています。まだ生まれていない則天のことを歌えるわけがありません。

 南北朝時代文人の庾信に「武媚娘詩」というのがあって、「眉心濃黛直㸃額角輕黄細安」という引用が残っていますが、武媚娘の曲との関連はよく分かりません。これも時代的に則天のことを詠んでいるとは考えられません。

 もしかしたら武媚娘の曲は唐の高宗のころに則天待望のプロパガンダソングとして改詞改作されて広められたのかもしれませんが……、憶測はほどほどにしておきます。

 則天に武媚と賜号したのは唐の太宗であって(『新唐書』后妃伝上)、媚は則天の諱・実名・幼名といった類のものではありません。媚娘呼称も曲名としてしか史料に出てきません。これは強調しておいたほうが良さそうです。

中国史ポリコレを考える

 「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がなかった頃から中国の歴史的呼称にはさまざまな批判が加えられてきたもので、とくに中華思想に関わる語に関してはやや慎重に扱われてきたとは言える。
 現代では「四夷」すなわち「東夷」・「南蛮」・「西戎」・「北狄」の語を括弧抜き(引用符抜き)で使用するのは、ためらわれるものがあるだろう。そうした語を平文で使用すれば、エスノセントリックな中華思想を肯定しているとみなされうるからである。
 一部の保守派が好んで使用する「支那」呼称なども、ポリコレ的な土俵の上にあるとはいえる。かれらに言わせれば「中国」呼称こそ中華思想を肯定する文脈にあり、使用が避けられるべきだというのである。ただ1946年の外務省「支那の呼称を避けることに関する件」に「支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふもの」とみるように、日本社会の大勢は「社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策」としてのポリコレに従って、支那の呼称を避け、中国呼称を選択しているとも言える。
 中国から見た周辺勢力の呼称「匈奴」・「鮮卑」・「倭」などは中華思想にもとづく蔑称ではないかと指摘されて久しいが、代替呼称が普及する様子はない。たとえば「蠕蠕」・「芮芮」・「茹茹」・「蝚蠕」などと正史で複数の呼称をもつモンゴル高原の勢力について、『通鑑』の「柔然」呼称が普及しているが、虫のうごめく「蠕」字が避けられたというより、常用外漢字が避けられたというほうが実際かもしれない。ただモンゴルに対して「蒙古」という旧称の使用が避けられる傾向にある程度である。呼称の見直しが議論されることもそう多くはなく、史家個人がその存念どおりの呼称を使用しており、歴史的呼称の変化はほとんど世代交代に等しい。冒頭に「やや慎重」と述べたとおりで、ポリコレ急進派が古い用語を狩りつくすというような懸念は、こと中国史界にあっては杞憂だろう。
 やや脱線になるが、ポリコレは言葉狩りだとみなすような単純な見解に亭主は与さない。ポリコレが実際の現象としては言い換えとして現れる以上、そこには新語が生まれているのであり、文化的にはむしろ新たなミームが発生しているといえる。旧語も平文常用のものとして避けられているだけで、括弧つき引用は自由であり、抹殺されているわけではない。そもそもポリコレ以前から言葉は変化するものであり、旧語と新語の交代は有史以来続いているのだ。ポリコレを敵視しても「トルコ風呂」や「スチュワーデス」が常用の語として復活することはない。
 話を歴史呼称に戻すなら、「則天武后」を「武則天」と呼んだり、「元朝」を「大元ウルス」と呼称したりするのも、そこにポリコレ的な理屈がつくとしても、旧語と新語の交代であり、歴史家の世代交代でもあるだろう。
 ついでに私見を述べておくと、亭主が憎んでやまない中国史語りの悪習は、非漢民族を「異民族」とひとくくりに呼ぶことであり、見直されるべきと考えている。



 さて、語ることはまだありそうだが、脱線を続ける話の収拾がつかないのが見えてきたので、締めに入らせてもらおう。E・H・カーが「歴史家と事実の間の相互作用の不断の過程」といい、「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」といったように、歴史の語り口は変化していくものであるし、歴史的呼称も不変のものとはならないだろう。ポリコレを問題視するにしても、剣と天秤を持つ「正義」が特定の誰かの専有物でない以上は、不断の議論によって暫定解を見出し続けていくしかない。

韓王安の捕縛と韓の滅亡

 荊州胡家草場漢簡「歳記」に
「十六年,始為麗邑,作麗山。初書年。破韓得其王,王入吳房」(1538号簡)
「十七年十二月,太后死。五月,韓王来。韓入地于秦」(1535号簡)
といった記述があり、紀元前231年(始皇16年)に秦が韓を破り、その王を捕らえて呉房(不詳)に入れ、紀元前230年(始皇17年)5月に韓王が来朝して韓の地が秦に編入されるという歴史認識が示されています。これは『史記』秦始皇本紀の「十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川」とも、同書六国年表の「十七 內史勝擊得韓王安,盡取其地,置潁川郡」や「九 秦虜王安,秦滅韓」とも異なり、韓王の捕縛と韓の滅亡が2年2段階にまたがっています。これは睡虎地秦墓竹簡「編年記」の「十七年,攻韓」とも異なる認識のようです。

斬白蛇剣

 秦の始皇帝阿房宮や酈山陵(始皇帝陵)の造営のために隠宮徒刑の者七十万人あまりを動員した(『史記』秦始皇本紀始皇三十五年条)。ちなみに隠宮とは従来は宦官のこととされていたが、隠官の誤写で刑期を終えた人を指すという新説が生まれている。
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20080125/p3

 ときに漢の高祖劉邦が泗水の亭長だったころである。劉邦は沛県のために酈山に刑徒を送ることとなったが、刑徒の多くが道中で逃散してしまった。劉邦は豊邑の西の沢中に達すると、とどまって酒を飲み、残っていた刑徒を夜間に解放して、「おまえたちは行ってしまえ。俺もここから逃げるとしよう」といった。刑徒の中の壮士で随従を願い出る者が十数人いた。劉邦は酒を飲み、夜のうちに沢中を進み、一人に先を進ませていた。先行させていた者が帰ってきて「前に大蛇がのたくっています。引き返しましょう」と報告した。劉邦は酔っていたので、「壮士が行くのに、何を恐れることがあろうか」といって前進し、剣を抜いて蛇を斬った。蛇は両断され、道は開けた。劉邦はそのまま数里行くと、泥酔して寝てしまった。後にある人が蛇のいたところにやってくると、ひとりの老婆が夜に泣いていた。人がその訳を問うと、老婆は「人がわが子を殺したので、泣いているのだ」と答えた。人が「婆さんの子はどうして殺されたのか」と問うと、老婆は「わしの子は白帝の子で、変化して蛇となって道に横たわっていたが、今さっき赤帝の子に斬られてしまった。そのため泣いているのだ」と答えた(『史記』高祖本紀および『漢書』高帝紀上)。劉邦が大蛇を斬った話であるが、劉邦が赤帝の子で、大蛇は白帝の子だというオカルトな解説が老婆の話によって後付けされている。

 さて、前置きが長くなったが、今回は劉邦が蛇を斬った剣についての話である。この斬蛇剣には次のような由来が伝わっている。

 劉邦の父の太公が若かったころ、長さ三尺の一本の刀を佩いていた。刀の表面の銘字は読むことができなかったが、殷の高宗(武丁)が鬼方を討伐したときに作られたものと伝わっていた。太公が豊・沛の山中に遊んだとき、狭い谷に寓居している鍛冶職人に会った。太公はそのそばで休息して、「何の器を鑄ているのか」と訊ねた。職人は「天子のために剣を鑄ているので、他言してはいけない」と笑っていった。さらには「公の佩剣は雑味があるが、鍛冶で直せば神器となって天下を平定することができるだろう。昴星の精が木気を衰えさせ、火気を盛んにするのを助ける。これは異兆である」といった。太公が了解して爐中に匕首を投げ入れると、三頭の動物を殺して犠牲に祭った。職人は「いつこれを得たのか」と訊ねた。太公は「秦の昭襄王のときにわたしが畦道を進んでいたところ、ひとりの野人が殷のときの霊物だといってくれたのだ」と答えた。職人は完成させた剣を持って太公に与えた。太公が劉邦に与え、劉邦が佩いて白蛇を斬ったのがこの剣である。劉邦が天下を平定すると、剣は宝物庫に仕舞われたが、蔵を警備する者は龍蛇のかたちをした雲のような白気が戸から出るのを目撃した。呂后がこの宝物庫を霊金蔵と改名した。恵帝が即位すると、この宝物庫は禁裏の兵器を貯蔵していることから、名を霊金内府といった(『三輔黄図』巻之六)。

 高祖劉邦が白蛇を斬った剣は、剣の上部に七采の珠と九華の玉がつけられていた。剣を収納した箱は、五色の琉璃で装飾されて、室内を照らした。剣は十二年に一回磨かれるだけだったが、その刃はいつも霜雪のようであった。箱を開けて鞘走らせると、風気と光彩が人を照射した(『西京雑記』巻一)。

 斬蛇剣は前漢後漢・三国魏・西晋の四朝およそ五百年にわたって保管された。おそらく後漢のときに長安から洛陽に移されたのであろう。

 西晋恵帝の元康五年(西暦295年)閏月庚寅、洛陽の武庫に火がかかった。張華は反乱の発生を疑い、まずは守備を固めるよう命じ、その後に消火にあたった。これにより累代の異宝である王莽の頭骨・孔子の履物・漢の高祖が白蛇を断った剣および二百万人器械が一時に焼尽した(『晋書』五行志上)。