河陰の変の犠牲者たち

 河陰の変は北魏の末期に晋陽を拠点としていた軍閥の爾朱栄が発動した政変で、武泰元年(西暦528年)四月十三日に発生しました。北魏の霊太后や幼主が黄河に沈められたのを皮切りに公卿以下2000人あまりが殺害されたとされています。以下はその犠牲者のリストのごく一部にすぎませんが、狂気の一端を感じていただければと思います。なお引用史料中に武泰元号と建義元号が混在しておりますが、四月中に改元がおこなわれたための混同によるもので、厳密には「武泰元年」が正当のはずです。では、

太后 - 皇太后 - 『魏書』巻10「乃害靈太后及幼主」『魏書』巻13「太后及幼主並沉於河」
元釗 - (前)皇帝 - 『魏書』巻10「乃害靈太后及幼主」『魏書』巻13「太后及幼主並沉於河」
元劭 - 御史中尉、無上王 - 『魏書』巻10「次害無上王劭」『魏書』巻21下「尋遇害河陰」
元子正 - 尚書令、始平王 - 『魏書』巻10「始平王子正」『魏書』巻21下「與兄劭俱遇害」元子正墓誌「春秋廿有一,以建義元年歳在戊申四月戊子朔十三日庚子薨於河陰」
元雍 - 丞相、高陽王 - 『魏書』巻10「又害丞相高陽王雍」『魏書』巻21上「於河陰遇害」
元欽 - 司空公、鉅平県公 - 『魏書』巻10「司空公元欽」『魏書』巻19上「於河陰遇害」元欽墓誌「春秋五十九,以建義元年四月十三日遇害於北邙之陰」
元恒 - 侍中、儀同三司 - 『魏書』巻10「儀同三司元恒芝」『魏書』巻19上「後於河陰遇害」
元略 - 驃騎大将軍、尚書令、東平王 - 『魏書』巻10「儀同三司東平王略」『魏書』巻19下「榮入洛也,見害於河陰」元略墓誌「春秋卌有三,以大魏建義元年歳次戊申四月丙辰朔十三日戊辰薨於洛陽之北邙」※元略墓誌の干支には誤りがある。
元悌 - 広平王 - 『魏書』巻10「廣平王悌」元悌墓誌「春秋廿有三,以武泰元年四月十三日薨於河梁之西」
元邵 - 常山王 - 『魏書』巻10「常山王邵」元邵墓誌「武泰元年太歳戊申四月戊子朔十三日庚子暴薨于河陰之野,時年二十有三」
元超 - 光禄大夫、領将作大匠、北平王 - 『魏書』巻10「北平王超」『魏書』巻19下「尒朱榮之入洛,超避難洛南,遇寇見害」※元超の死については孝荘紀と景穆十二王列伝の記述のあいだに矛盾がある。
元彝 - 任城王 - 『魏書』巻10「任城王彝」『魏書』巻19中「莊帝初,河陰遇害」元彝墓誌「以武泰元年四月十三日奉迎鑾蹕於河渚,忽逢亂兵暴起,玉石同焚,年廿三薨逝」
元毓 - 趙郡王 - 『魏書』巻10「趙郡王毓」『魏書』巻21上「莊帝初,河陰遇害」元毓墓誌「春秋廿,建義元年四月十三日薨於雒陽」
元叔仁 - 征虜将軍、通直散騎常侍 - 『魏書』巻10「中山王叔仁」『魏書』巻19下「孝莊初,遇害於河陰」
元温 - 斉郡王 - 『魏書』巻10「齊郡王溫」
元法寿 - 平東将軍、光禄大夫 - 『魏書』巻16「建義初,於河陰遇害」
元謙 - 前軍将軍、征蠻都督 - 『魏書』巻16「莊帝初,於河陰遇害」
元馗 - 安西将軍、東秦州刺史 - 元馗墓誌「春秋卌七,薨於河陰鑾駕之右」
元汎 - 光禄大夫、宗正卿、東燕県男 - 『魏書』巻19上「於河陰遇害」
元順 - 征南将軍、右光禄大夫、兼尚書左僕射 - 『魏書』巻19中「聞害衣冠,遂便出走,為陵戶鮮于康奴所害」元順墓誌「遂以刃害公,春秋卌有二」
元義興 - 輔国将軍、通直散騎常侍 - 『魏書』巻19下「孝莊初,於河陰遇害」
元湛 - 廷尉少卿 - 『魏書』巻19下「莊帝初,遇害河陰」元湛墓誌「春秋卅八,建義元年歳次實沈月在仲呂戊子朔十三日庚子薨」
元讞 - 左将軍、太中大夫、平鄉県開国男 - 『魏書』巻21上「莊帝初, 河陰遇害」
元均之 - 行趙郡太守 - 元均之墓誌「春秋三十有八,武泰元年四月戊子朔十三日薨于洛陽」
元瞻 - 金紫光禄大夫、散騎常侍 - 元瞻墓誌「春秋五十一,以建義元年四月戊子朔十三日薨於位」
元譚 - 秦州刺史 - 元譚墓誌「春秋卌有一,建義元年歳次戊申四月十三日龍飛之會」
元悛 - 国子学生 - 元悛墓誌「以建義元年四月十三日卒於河梁之南」
元愔 - 員外郎 - 元愔墓誌「以建義元年四月十三日卒於河梁之南」
元端 - 安徳郡開国公 - 元端墓誌「春秋三十六,大魏武泰元年四月戊子朔十三日庚子卒於邙山」
元宥 - 贈征北将軍、相州刺史 - 元宥墓誌「春秋五十四,以武泰元年夏四月既旬越三日薨於廬」
元廞 - 員外散騎常侍 - 元廞墓誌「春秋卌有三,以建義元年四月十三日薨於位」
元昉 - 給事中 - 元昉墓誌「春秋十有九,建義元年四月十三日薨於洛陽」
元礼之 - 軍主 - 元礼之墓誌「以建義元年四月十三日遘疾薨於京師,時年廿三」
元永 - 員外散騎常侍 - 元永墓誌「武泰元年太歳戊申四月十三日薨於京師,春秋廿五」
元維 - 大宗正丞 - 元維墓誌「春秋廿六,以建義元年四月十三日河梁之下,非命卒世」
封回 - 右光禄大夫 - 『魏書』巻32「莊帝初,遇害於河陰,時年七十七」
王遵業 - 在父喪中 - 『魏書』巻38「俱見害河陰」
李瑾 - 通直散騎侍郎 - 『魏書』巻39「莊帝初,於河陰遇害,年四十九」『北史』巻100「莊帝初,於河陰遇害,年三十九」
李曖 - 尚書左外兵郎 - 『魏書』巻39「孝莊初,於河陰遇害,年四十」
李㬇 - 尚書左外兵郎 - 『北史』巻100「莊帝初,於河陰遇害,年四十」
李仁曜 - 員外散騎侍郎、太尉錄事參事 - 『北史』巻100「與兄㬇同於河陰遇害,年三十八」
李皓 - 散騎侍郎 - 『北史』巻100「亦遇害河陰」
李義慎(義順) - 司空屬 - 『魏書』巻39「莊帝初,並於河陰遇害」
李義遠 - 国子博士 - 『魏書』巻39「莊帝初,並於河陰遇害」
李遐 - 河内太守 - 『魏書』巻39「及河陰,為亂兵所害,時年四十二」『北史』巻100「從孝莊南度河,於河陰遇亂兵所害」
陸士宗 - 尚書左外兵郎中 - 『魏書』巻40「建義初,並於河陰遇害」
陸士述 - 符璽郎中 - 『魏書』巻40「建義初,並於河陰遇害」
陸希悦 - 平南将軍、光禄大夫 - 『魏書』巻40「遇害於河陰」
陸紹 - 司空城局参軍 - 陸紹墓誌「春秋五十有一,武泰元年四月十三日卒於京厘」
源纂 - 太府少卿 - 『魏書』巻41「建義初,遇害河陰,年三十七」
宇文慶安 - 武衛将軍 - 『魏書』巻44「河陰遇害」
裴詢 - 関右大使 - 『魏書』巻45「會尒朱榮入洛,於河陰遇害,年五十一」
李翼 - 尚書郎 - 『魏書』巻49「建義初,遇害河陰」
崔忻 - 兼尚書左丞 - 『魏書』巻49「莊帝初,遇害於河陰,年四十二」
李瑒 - 免官 - 『魏書』巻53「建義初,於河陰遇害,時年四十五」『北史』巻33「建義初,河陰遇害」
鄭季明 - - 『魏書』巻56「建義初,仲明弟季明遇害河陰」
楊暐 - 散騎常侍、安南将軍 - 『魏書』巻58「莊帝初,遇害於河陰」楊暐墓誌「建義元年四月十三日薨於河陰,嗚乎哀哉」
王誦 - 給事黄門侍郎 - 『魏書』巻63「孝莊初,於河陰遇害,年三十七」王誦墓誌「春秋卌有七,以魏建義元年歳在戊申四月十三日薨于洛陽」
李神軌 - 大都督 - 『魏書』巻66「尋與百官候駕於河陰,仍遇害焉」
崔士泰 - 龍驤将軍、征蛮別将 - 『魏書』巻66「建義初,遇害於河陰」
崔勵 - 斉州大中正 - 『魏書』巻67「建義初,遇害河陰,時年四十八」
高雲 - 輔国将軍、中散大夫 - 『魏書』巻68「建義初,於河陰遇害」『北史』巻40「河陰遇害」
裴延儁 - 兼侍中、吏部尚書 - 『魏書』巻69「莊帝初,於河陰遇害」『北史』巻38「莊帝初,於河陰遇害」
袁翻 - 撫軍将軍 - 『魏書』巻69「建義初,遇害於河陰 ,年五十三」
袁昇 - 通直散騎常侍 - 『魏書』巻69「亦於河陰見害」『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」
裴諧 - 著作佐郎 - 『魏書』巻71「建義初,於河陰遇害,時年二十六」
范紹 - 太府卿 - 『魏書』巻79「莊帝初,遇害河陰」
李延孝 - 尚書屯田郎中 - 『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」『北史』巻100「於河陰遇害」
李奐 - 外兵郎 - 『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」
王延業 - 中書郎 - 『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」『北史』巻35「河陰之役,遂亡骸骨」
馮穆 - 金紫光禄大夫 - 『魏書』巻83上「遇害河陰」
崔暹 - 都督 - 『魏書』巻89「建義初,遇害於河陰」
王忻 - 太尉記室参軍 - 『魏書』巻93「建義初,河陰遇害」
王誕 - 龍驤将軍、正平太守 - 『魏書』巻93「亦於河陰遇害」
蕭彦 - 金紫光禄大夫 - 『魏書』巻94「彥於河陰遇害」
王溫 - 武陽県開国侯 - 『魏書』巻94「建義初,於河陰遇害,年六十六」
盧仲宣 - 太尉属 - 『北史』巻30「魏孝莊帝初,遇害河陰」
周安 - 通直散騎常侍、䮾驤将軍、俊儀県開国男 - 周安墓誌「建義元年,主上聖德應符,中興啓運,奉迎河陰,遇此亂兵,枉離禍酷」
唐耀 - 游撃将軍、散品雛県男 - 唐耀墓誌「春卌有七,魏建義元年歳次戊申四月戊子朔十三日庚子薨於洛陽」

以上。

 この陰惨な事件が発生した原因としては、霊太后が孝明帝を毒殺し、孝明帝と潘充華のあいだに生まれた皇女を男子と偽って皇帝に擁立し、このことが発覚するやわずか1日で退位させて、幼主元釗を擁立したことにあるとされています。爾朱栄はこれに激怒して軍を南進させ、長楽王元子攸(孝荘帝)を擁立し、洛陽を目指します。爾朱栄の軍が黄河を渡ると、霊太后は敗北を悟って落髪し、爾朱栄の派遣した騎兵に護送されて河陰に入ります。北魏の百官たちも孝荘帝を奉迎する名目でついていくわけですが、爾朱栄が霊太后の罪を糾弾する演説をおこなうや、爾朱栄の兵たちは暴発し、虐殺事件にいたるわけです。なお孝荘帝の即位は四月十一日戊戌のことで、河陰の変が起こったのは四月十三日庚子のことですが、この時間順を逆に書いているWikipedia「霊太后」記事などは信用してはいけません。「莊帝初」と書いている史料が正当なのです。

 上の犠牲者リストには、孝荘帝に従って渡河した側にいたにも関わらず巻き添えを食った河内太守李遐のような例や、現場から逃亡した先で殺されてしまった元超や元順のような例も含めています。

 つぶさにこのリストをみるに、やはり元氏(拓跋氏)の受けた被害は甚大だったと言わざるをえません。この事件のあとも傍系の元氏の皇族の氏名はぞろぞろと史料に登場し、皇帝も乱立するため、元氏はそれほど減ってないんじゃないかという錯覚もおぼえます。しかし宰相級を担える人材がほぼ払底し、北魏やその後継の東魏西魏を元氏がコントロールすることはできなくなったのです。北魏の滅亡を決定づけたとまではいかないものの、北朝軍閥分立時代の鶏鳴暁を告げた事件とくらいはいえそうです。

清華簡「楚居」をテキトーに訳してみた

 季連が初めて隈山(騩山)に降り 、𥤧竆(穴窮)にいたった。前に喬山(驕山)に出て、爰波(爰陂)を宅処とした。汌水をさかのぼり、方山を居処とする盤庚の子と会見した。その娘は妣隹といい、人心を掌握しており、四方に名声が轟いていた。季連は彼女と結婚できると聞いて、随従して盤(泮)に赴いた。ここに𦀚白(𦀚伯)と遠中(遠仲)が生まれた。順調に成長して、先に京宗に居住した。穴酓(穴熊)は遅くして京宗に徙り、ここに妣列を得た。哉水(載水)をさかのぼり、聶耳を屈服させると、妣列を妻に迎え、侸叔と麗季を生んだ。麗季は尋常な出産でなく、帝王切開で生まれ、妣列はこのとき死去したことから、巫咸はその出産を楚とし、今にいたるまで楚人といわれる。酓𢚇(熊狂)にいたってまた京宗に居住した。酓繹(熊繹)と屈𥾡(屈紃)にいたって、鄀嗌を夷屯に徙させた。楩室を作って完成させると、中に入れさせず、鄀人の牛を盗んで祭祀をおこなった。 その主を懼れて、屍を夜間に搬入したため、今にいたるまで尸祭は必ず夜におこなわれるようになった。酓只(熊只)・酓𦨪(熊䵣)・酓樊 (熊樊)および酓錫(熊錫)・酓渠(熊渠)にいたるまで、ことごとく夷屯に居住した。酓渠(熊渠)が発漸に徙居した。酓艾(熊艾)と酓摯(熊摯)にいたるまで発漸に居住した。酓摯(熊摯)は旁屽に徙居した。酓延(熊延)にいたって旁屽から喬多に徙居した。酓甬(熊勇)および酓厳(熊厳)・酓相(熊霜)および酓雪(熊雪)および酓訓(熊徇)・酓咢(熊咢)および若囂(若敖)酓義(熊儀)にいたるまで、みな喬多に居住した。若囂(若敖)酓義(熊儀) が箬に徙居した。焚冒(蚡冒)酓帥(熊帥)にいたって箬から焚に徙居した。宵囂(宵敖)酓鹿(熊鹿)にいたって焚から宵に徙居した。武王酓徹(熊徹)にいたって宵から免に徙居し、このため始めて□□□□□福。人々を免に収容できなかったため、疆郢の陂を埋め立てて人を収容した。このため今にいたるまで郢という。文王にいたって疆郢から淋郢に徙居し、淋郢から為郢に徙居した。再び免郢に徙居し、これを改名して福丘といった。荘囂(荘敖)にいたって福丘から箬郢に徙襲した。成王にいたって箬郢から淋郢に徙襲し、徙□□□□睽郢に居した。穆王にいたって睽郢から為郢に徙襲した。荘王にいたって樊郢に徙襲し、同宮の北に徙居した。若囂(若敖)の禍が起こり、このため承の埜(蒸の野)に徙居し、□□□為郢に徙襲した。龏王(共王)・康王・ 嗣子王(郟敖)にいたるまでみな為郢に居住した。霝王(霊王)にいたって為郢より秦渓(乾渓)の上に徙居し、章華の台を為処とした。競坪王(景平王)が即位すると、なおも秦渓(乾渓)の上に居住していた。卲王(昭王)にいたって秦渓(乾渓)の上から媺郢に徙居し、鶚郢に徙居し、為郢に徙襲した。盍虜(闔閭)が郢に侵入すると、 このため再び秦渓(乾渓)の上に徙居し、再び媺郢に徙襲した。献恵王にいたって媺郢から為郢に徙襲した。白公の禍が起こると、このため淋郢に徙襲し、これを改めて、肥遺といい、梄澫を為処とした。鄢郢に徙居し、吁に徙居した。王太子は邦を再び淋郢とし、王は吁から蔡に徙った。王太子は淋郢から疆郢に徙居した。王は蔡からここにもどった。柬大王は疆郢より藍郢に徙居し、䣙郢に徙居し、𨜻に復帰した。王太子は䣙郢を邦居とし、𨛚郢を為処とした。悼折王(悼哲王)にいたってなお䣙郢に居住していた。中謝の禍が起こると、このため肥遺に徙襲した。邦は大いに衰え、このため鄩郢に徙居した。

 

 「楚居」は清華大学蔵戦国竹簡の一篇で、楚王代々の居処の記録である。
 拙訳にあたっては、
http://www.gwz.fudan.edu.cn/Web/Show/1663
http://chu.yangtzeu.edu.cn/info/1006/1428.htm
あたりを超テキトーに参考にし、面倒くさいところは現代日本語に砕く努力を省いた。
 「~郢」と呼ばれる楚の都が何カ所もあったり、楚王の系譜が『史記』楚世家と異なる箇所があったりするのが、この史料の注目点といえるだろう。

歴史の有用性とは

 歴史語りとは、もちろんそれは話題とする歴史を探求する営為にほかならないのだが、同時に話者の文化と言語の可能性を拡張する営為でもありうる。

……とか格好よくいうと、すでに過去の先賢のアフォリズムの中にありそうな気もする。過去の言語を、ミームを、社会を掘り出すことで、われらが現代の母なる文化と言語を拡充し、より豊穣なものにしているのだよ。歴史が役に立つとか、役に立たないとかつまらない議論はやめたまえ。

最近の漢籍電子テキスト事情2020年版

 以前にも同様のテーマで書いたことはあるのだが、内容がだいぶ古びてしまったので、稿を新たに書こうと思う。なお使用料が必要とか授権使用とか面倒くさいあたりのところは当方は関知しないのであしからず。

台湾中央研究院漢籍電子文献資料庫
http://hanji.sinica.edu.tw/
 テキストの信頼性の高さと取り回しの良さで、いまだにここがスタンダードと言える。二十五史や十三経といった基本的な文献を検索するときにはまずここである。なお授権使用だと使用できるテキストが激増するらしいが、免費使用オンリーの亭主の知ったことではない。戦国策や通典を検索できた「人文資料庫師生版1.1」が消えてしまったのが惜しまれてならない。

台湾師大図書館【寒泉】古典文献全文検索資料庫
http://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/
 ここも老舗であるが、優先度は下がってしまったかもしれない。先秦諸子や資治通鑑や太平広記や全唐詩などをピンポイントで検索するときにはここを使う。

漢籍リポジトリ
http://www.kanripo.org/
 テキストの信頼性が低いのが難点だが、怒涛のごときテキストの量は質を凌駕する。検索も使える。

中華経典古籍庫
http://publish.ancientbooks.cn/docShuju/platformSublibIndex.jspx?libId=5
 無料使用だと検索だけで、コピーアンドペーストさえできないが、これまたテキストの量が膨大で驚く。テキストの質もよさそうである。

Wikisource
https://zh.wikisource.org/wiki/Portal:%E5%8F%B2%E6%9B%B8
 テキストの質が低く、検索も使いものにならないという踏んだり蹴ったりだが、今後に期待したい。

『山月記』の袁傪が将軍だった件

 中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとなった実在の袁傪について述べており、『山月記』の袁傪の人格や毀誉褒貶に一切関わりがないことを特に申し添えておきます。

 さてはじめに袁傪の出自や前半生を語りたいところですが、ほとんど何も分かりません。正史に袁傪の列伝がないので、まとまった伝記というものがないのです。まずは袁傪の出身地が不明です。『全唐文』巻396に見える「姚令公元崇書曹州布衣袁參頓首」の「袁參」が袁傪という説もありまして、これを採るなら曹州(済陰郡)の人になります。ちなみに袁傪の本貫を陳郡(陳州)とするのは、李徴とからむ『宣室志』人虎伝系の説話が生まれて以降の設定のようで、まともな史書には見えません。陳郡袁氏は名族ですので、そういう設定が後付けで作られたのでしょう。

 大唐故東平郡鉅野県令頓丘李府君墓誌銘(李璀墓誌)によると、袁傪は鉅野県令をつとめた李璀の次女を妻に迎えました。ちなみに李璀は748年(天宝7載)に72歳で死去しており、その夫人の博陵崔氏はその翌年に56歳で亡くなっています。

 袁傪が756年(天宝15載)に進士に及第したという説がありますが、これも人虎伝系説話が李徴を天宝15載の進士としており、袁傪が同期とされることからの附会でしょう。袁傪が史書の片隅に名を残したのは、李光弼の部下として袁晁・陳荘・方清の3つの反乱を鎮圧し、軍事的功績を挙げたからです。『新唐書』劉晏伝に「上元、寶應間,如袁晁、陳莊、方清、許欽等亂江淮,十餘年乃定」と粛宗・代宗期の江淮における4つの反乱が挙げられていますが、袁傪はそのうち3つを平定していることになります。まずは台州の袁晁の乱から見ていきましょう。

 『旧唐書』代宗紀宝応元年八月庚午の条に「台州賊袁晁陷台州,連陷浙東州縣」とあるのが、袁晁の乱のはじまりです。代宗紀での袁傪の記述は宝応二年三月丁未の条に「丁未,袁傪破袁晁之眾於浙東」とあり、763年に袁晁の反乱軍を浙東で撃破したという簡潔な記述にとどまっています。

 『旧唐書』王栖曜伝では宝応の次の広徳年間のこととされていますが、「廣德中,草賊袁晁起亂台州,連結郡縣,積眾二十萬,盡有浙江之地。御史中丞袁傪東討,奏栖曜與李長榮為偏將,聯日十餘戰,生擒袁晁」とあります。袁晁が台州で反乱を起こし、20万の人々を集め、浙江全域を領有した。御史中丞の袁傪が東征し、王栖曜と李長栄が偏将となり、連日十数戦して、袁晁を生け捕りにしたというのです。

 李肇『唐国史補』巻上によると、「袁傪之破袁晁擒其偽公卿數十人州縣大具桎梏謂必生致闕下傪曰此惡百姓何足煩人乃各遣笞臀而釋之」といい、袁傪は公卿を称していた袁晁軍の幹部数十人を捕らえると、かれらに桎梏を嵌めて「百姓が人を煩わせおって」といい、その臀部を笞打って釈放させたといいます。心底からの民衆蔑視なのか、それを装った温情なのか、解釈は分かれるかもしれません。

 『全唐詩』巻148にみえる劉長卿の「和袁郎中破賊後軍行過剡中山水謹上太尉」や同巻207にみえる李嘉祐「和袁郎中破賊後經剡縣山水上太尉」や同巻250にみえる皇甫冉「和袁郎中破賊後經剡中山水」といった詩題があります。袁郎中は袁傪を指し、太尉は李光弼を指しています。これらの詩は袁傪が李光弼の部下として袁晁の乱を鎮圧した後、越州剡県の名勝地を李光弼に見せて回ったときのことを詠んだものです。

 さて、烏石山の陳荘の乱・石埭城の方清の乱に進みましょう。

 『文苑英華』巻566の「賀袁傪破賊表」によると、「臣某等言臣等伏見河南副元帥行軍司馬太子右庶子兼御史中丞袁傪露布奏今年五月十七日破石埭城賊方清并降烏石山賊陳莊等徒黨二萬五千五百人者」といい、河南副元帥行軍司馬・太子右庶子・兼御史中丞の官にあった袁傪が石埭城の反乱軍の方清を破り、烏石山の反乱軍の陳荘を降伏させたようです。ちなみに河南副元帥は李光弼の官であり、行軍司馬はその軍事面の副官にあたります。

 『新唐書』地理志五によると、池州秋浦県に烏石山があり、広徳初年に陳荘・方清の反乱軍が拠ったとされています。また同志には、765年(永泰元年)に方清の反乱軍が歙州を陥落させ、766年(永泰2年)に方清の乱が鎮圧されたことがみえます。「賀袁傪破賊表」の「今年」は、766年のこととみるべきでしょう。

 『全唐詩』巻252に袁傪の現存唯一の詩が収録されています。

喜陸侍御破石埭草寇東峰亭賦詩 袁傪
古寺東峰
登臨興有餘
同觀白簡使
新報赤囊書
幾處閒烽堠
千方慶里閭
欣欣夏木長
寂寂晚煙徐
戰罷言歸馬
還師賦出車
因知越范蠡
湖海意何如

 題は「陸侍御が石埭の草寇を破ったのを喜び、東峰亭に詩を賦す」といったところです。陸侍御とは陸渭のことであり、『新唐書』蕭穎士伝に「如李陽、李幼卿、皇甫冉、陸渭等數十人,由奬目,皆為名士」と列せられた名士です。石埭の草寇とは方清率いる石埭城の反乱軍のことです。趙紹祖『涇川金石記』に旧志を引いて「唐御史中丞袁傪命判官殿中侍御史陸渭以石埭寇方清已,以後軍次涇上」というように、陸渭はどうやら袁傪の部下として方清の乱の鎮圧に従事したらしいのです。同じ主題の詩は崔何・王緯・郭澹らにも詠まれており、袁傪をめぐる人間関係がうっすら見えてくるようでもあります。

 ここで袁傪の部下についても簡単に紹介しておきましょう。王栖曜・李長栄・陸渭らについては上述したので繰り返しません。『旧唐書』李自良伝に立伝されている李自良は「後從袁傪討袁晁陳莊賊」といい、袁傪に従って袁晁・陳荘の乱を討ったことが明記されています。『韓愈文集』所収の「崔評事墓銘」には、広徳年間に袁傪が袁晁を討ったとき、崔翰が偏将をつとめたことが見えます。

 さて、『唐僕尚丞郎表』巻18によると、袁傪は777年(大暦12年)から尚書兵部侍郎をつとめていたようです。長安の中央官界に入っても軍務畑からは離れられなかったようです。この年の元載の弾劾取り調べに袁傪ら6人が関わっていたことが、両唐書の元載伝や劉晏伝に見えます。

 最後に袁傪が顔真卿に喧嘩を売った話をしなくてはなりますまい。ことは779年(大暦14年)の話です。『旧唐書』徳宗紀大暦十四年秋七月戊辰朔の条に「秋七月戊辰朔,日有蝕之。禮儀使、吏部尚書顏真卿奏:「列聖諡號,文字繁多,請以初諡為定。」兵部侍郎袁傪議云:「陵廟玉冊已刻,不可輕改。」罷。傪妄奏,不知玉冊皆刻初諡而已」(秋7月1日に日食があった。礼儀使・吏部尚書顔真卿が「列聖の諡号は文字がやたら多いので、初諡によって定めるようお願いします」と上奏した。兵部侍郎の袁傪が「陵廟の玉冊はすでに刻まれているので、軽々しく改めるべきではない」と反論したので、取りやめられた。袁傪の反論は間違いで、玉冊にはみな初諡が刻まれているのを知らなかったのだ)とあります。

 この話は顔真卿伝にもあって、列聖の諡号とは高祖(李淵)以下の七聖の諡号であると分かります。高祖李淵の例でいうなら「神堯大聖大光孝皇帝」とか長いやつですね。顔真卿はこれを初諡の「大武皇帝」に戻そうと提案したのです。袁傪は皇帝陵墓と宗廟の玉冊にはすでに長い当時最新の諡号が刻まれていると勘違いして、ピント外れな反論をおこなったのですが、その反論が通って顔真卿の提案は退けられてしまったのですね。

 顔真卿は書家として有名な人ですが、安史の乱に対する義兵を起こして抵抗した軍事指導者でもありまして、袁傪の旧主である李光弼のライバルでもありました。李光弼は大暦年間にはとっくに亡くなっていましたが、もしかしたら古い確執が尾を引いてこの奇妙で短い論争へと導いたのかもしれません。

 袁傪の晩年と最期については、その前半生と同様に不明です。もし今後に何か新たなことが分かるとするなら、それは袁傪の墓誌が出土したときかもしれません。

内史騰は韓の降将なのか

 Wikipedia日本語版「内史騰」記事を読んでいたら、現行版(2020-08-05T15:24:26の版)に
「紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。」
と書かれていました。
 中文版の「內史騰」記事にも、
「秦王政十六年(前231年),韓王安獻出南陽一帶的土地(今河南境王屋山(太行山餘脈)南、黃河以北地區)向秦稱臣。同年九月,秦王政委任韓國降將騰(後來的內史騰)代理南陽守一職。」
とあります。内史騰は韓から秦に降伏した将軍で、韓から南陽の地を譲られて秦の南陽郡が立てられると、南陽郡守の代行とされたという解釈ですね。

 これらの記述の根拠となる『史記』秦始皇本紀始皇十六年の条には
「十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰」
とあります。
 この箇所をちくま『史記』(ちくま文庫I巻p.142)は
「十六年九月、卒を発し、韓の南陽の地を受け、内史の騰を仮の守とした」と訳しています。ちくま訳が「内史」を勝手に補っていることは、ひとまず不問にしておきますが、騰が韓の出身者という文脈を読むことはできません。

 さて、現存最古のテクストである黄善夫本の宋版史記
https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/sohanshiki/h-172-9
の13コマ目を見ると、
「十六年九月ニ卒ヲ發地ヲ韓ノ南陽ノ假リノ守騰ニ受」
と読んでいるらしいことが分かります。現代語的に読むなら「十六年九月に兵を発し、地を韓の南陽の仮の守の騰から受けとった」というあたりですかね。
 騰が韓の南陽仮守であるという解釈なことと、騰が韓から降ったとははっきり書かれていないことがわかります。ただ続く始皇十七年の条に「十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地」とあることから、韓の南陽仮守騰と韓を滅ぼした秦の内史騰を同一人物とみなし、韓から降ったとみなす解釈は十分ありえます。内史が官名なのだとすれば、韓からの降伏者を一年ほどで首都の長官に昇任させたことになりますが、秦はたびたび外国出身者を相邦・丞相の高位に登用している国ですので、全く不自然でありえないとは言えません。

 瀧川亀太郎『史記会注考証』は「卒を発し、韓の南陽の地を受け、内史騰を仮守とした」とする方苞の説を挙げており、ちくま訳はこちらの解釈を踏襲しているんですね。

 現時点の結論としては、解釈は複数あり、内史騰を韓の降将とするのも一説としてありえるというところです。

河東蜀、絳蜀、赤水蜀、あるいは常敗の河東薛氏の経営術

 「蜀」というと、現在の四川省成都市一帯に置かれた蜀郡や現在の四川省の簡称としての蜀といった地名、あるいは秦に滅ぼされた古蜀や三国の蜀漢五代十国前蜀後蜀などの国号のいくつかが思い浮かぶ。いずれも成都一帯の土地と紐つけられているには違いない。しかし今回取り上げるテーマは成都から遠く離れた山西の地にいた「蜀」の話である。

 まずは『魏書』道武帝紀の
「鄜城屠各董羌、杏城盧水郝奴、河東蜀薛楡、氐帥符興,各率其種内附」*1
を挙げよう。屠各(匈奴)の董羌・盧水胡の郝奴・氐の符興といった人物と並んで、「河東蜀」の薛楡なる人物が北魏の道武帝に帰順したことを示す記事である。「其種」というから河東蜀が種族的に扱われていることは間違いない。河東は当時の河東郡のことであり、現在の山西省運城市一帯に相当する。

 次いで同じく道武帝紀の
「西河胡帥護諾于、丁零帥翟同、蜀帥韓礱,並相率内附」*2
に見える蜀の帥である韓礱も西河胡や丁零の将帥と併記されており、蜀が種族的・民族的に扱われている例といえる。

 河東蜀は北魏の道武帝から太武帝の時代にその活動が見られる。
『魏書』明元帝
「夏四月戊寅,河東蜀民黃思、郭綜等率營部七百餘家内屬」*3
「河東胡蜀五千餘家相率内屬」*4
「河東蜀薛定、薛輔率五千餘家内屬」*5
『魏書』太武帝
「河東蜀薛永宗聚黨盜官馬數千匹,驅三千餘人入汾曲,西通蓋吳,受其位號」*6

 やはり気になるのが、河東蜀の人物として薛楡・薛定・薛輔・薛永宗のように薛氏の人物が頻出することである。『魏書』薛弁伝が「其先自蜀徙於河東之汾陰,因家焉」と述べていることとの関連も見える。とどめは『魏書』盧水胡沮渠蒙遜伝に「真君中,遂與河東蜀薛安都謀逆」とあることで、北魏南朝宋のあいだを縦横往来した河東薛氏の大立者である薛安都が河東蜀とされていることである。「河東蜀」は河東郡汾陰県(現在の山西省運城市万栄県)を本貫とする河東薛氏と同一と言わないまでも、かなり関連の深い集団であると言わざるを得ない。薛弁伝の記述を重視するなら、先祖が蜀から河東郡に移住してきたとされる河東薛氏を含む集団が「河東蜀」と呼称されたのだろう。なお薛永宗は『宋書』薛安都伝に薛安都の宗人(一族)として同名の人物が見える。

 河東蜀の記述は太平真君年間を最後に途絶えているが、これは446年(太平真君7年)に薛安都が北魏から南朝宋に亡命し、薛真度ら河東薛氏の多くも薛安都に従って南遷したことが理由だろう。この南遷も前年に河東蜀の薛永宗が官馬数千匹を盗み、蓋呉の乱と連携したことに端を発している。薛安都や薛真度らは467年(皇興元年)に北魏に復帰するが、以後は再びかれらを「河東蜀」と呼ぶ史料を見ることはできない。

 集団としての「蜀」の記録は北魏の太平真君年間から約80年の断絶を経て史料に現れる。北魏の後期に再び現れた蜀は河東郡や河東薛氏の枠のみでは捉えられなくなっていく。
『魏書』孝明帝紀
「絳蜀陳雙熾聚眾反,自號始建王」*7
『魏書』裴良伝
「時南絳蜀陳雙熾等聚眾反,自號建始王,與大都督長孫稚、宗正珍孫等相持不下」
『魏書』長孫稚伝
「尋而正平郡蜀反,復假稚鎮西將軍、討蜀都督,頻戰有功,除平東將軍,復本爵」
『魏書』河間王若伝
「後討汾晉胡、蜀」
『魏書』裴慶孫伝
「於後賊復鳩集,北連蠡升,南通絳蜀,兇徒轉盛,復以慶孫為別將,從軹關入討」
『魏書』費穆伝
「孝昌中,二絳蜀反,以穆為都督,討平之」
『魏書』李苗伝
「俄兼尚書右丞,為西北道行臺,與大都督宗正珍孫討汾、絳蜀賊,平之」
『魏書』源子恭伝
「加後將軍,平絳蜀反」
「俄而建興蜀復反,相與連勢」
「正平賊帥范明遠與賊帥劉牙奴並面縛請降」
『魏書』尒朱栄伝
「兩絳狂蜀,漸已稽顙」

 526年(孝昌2年)、「絳蜀」の陳双熾が北魏に対して反乱を起こした。反乱の手は北絳郡・南絳郡・正平郡・建興郡など現在の山西省南部に広がった。これらの郡は河東郡の近隣に位置しているが、河東薛氏の対応は屈折したものだったようだ。『北斉書』薛脩義伝に「絳蜀賊陳雙熾等聚汾曲,詔脩義為大都督,與行臺長孫稚共討之」と見えるように、河東薛氏の薛脩義は長孫稚とともに反乱鎮圧に加担した。しかし長孫稚・宗正珍孫らの北魏の官軍は正平郡の蜀の討伐に苦戦してしまう。陳双熾の反乱は李苗・費穆・源子恭らによって鎮圧されたことにされているが、実際には官軍の勝利は限定的で、何らかの条件講和が図られたのではないか。反乱の首領である陳双熾が生存しているほか、正平郡の反乱軍の首領の范明遠や劉牙奴らも降伏を許されている。後段にみるように陳双熾はその後も攻勢に出られるほどの軍勢を保持していたとみられる。

 翌527年(孝昌3年)、蕭宝寅が関中で反乱を起こすと、薛脩義の宗人の薛鳳賢が蕭宝寅に呼応して正平郡で起兵した。薛脩義は薛鳳賢に呼応して河東郡で起兵し、塩池に拠り、蒲坂を包囲した*8。長孫稚は孝明帝に蕭宝寅討伐の命を受けて西征の任にあたり、潼関を落としたものの河東郡への転進を余儀なくされた*9。『魏書』楊侃伝に長孫稚のことばとして「薛脩義已圍河東,薛鳳賢又保安邑,都督宗正珍孫停師虞坂,久不能進」といい、薛脩義と薛鳳賢に挟まれた苦境をこぼしている。『魏書』長孫稚伝によると、このとき塩池の税を廃止するよう孝明帝に上奏している。唐突に見える提議であるが、ほどなく薛脩義は早々に降伏し、薛鳳賢も続いて降って許された。薛脩義がその反乱に際して塩池に拠っていることと考え合わせると、河東薛氏の反乱自体が河東郡解県の塩池(解池)の利権をめぐる条件闘争だったのではないかと思われる。河東薛氏にとって有利な妥結を得たので、あっさり降伏したのではないか。

 その後のことであるが、『魏書』樊子鵠伝に「元顥入洛,薛脩義及降蜀陳雙熾等受顥處分,率眾攻州城。子鵠出與戰,大破之,又破脩義等於土門」という記述がある。北魏の北海王元顥が南朝梁に擁せられて魏帝を称し、洛陽を占拠した。このため北魏の孝荘帝は河内郡に避難を余儀なくされている。529年(永安2年)のことである。このとき薛脩義と陳双熾は元顥につき、晋州の州城を攻撃した。両者は土門で晋州刺史の樊子鵠に敗れてやむなく退いている。薛懐儁墓誌によると、薛真度の子の薛懐儁が北海王元顥の下で長史をつとめており、薛脩義が元顥に加担したのもそうした関係によるものかもしれない。

 陳双熾のその後は不明だが、薛脩義は北斉の初年までしぶとく生き延びている*10。「絳蜀」と河東薛氏の関係は一筋縄ではなかったものの、陳双熾と薛脩義の一連の行動からは、密接な関係にあったとみるべきだろう。河東薛氏は薛脩義の二度の軍事的失敗にも関わらず、大した傷を負ったようにも見えず、隋唐以降も河東郡(蒲州)の名族として繁栄していくことになる。

 いっぽう集団としての「蜀」は衰退し、史料からは消えていくこととなる。その最後を追ってみよう。

『魏書』尒朱天光伝
「時東雍赤水蜀賊斷路」
『周書』李弼伝
「永安元年,爾朱天光辟為別將,從天光西討,破赤水蜀」
『周書』侯莫陳崇伝
「後從岳入關,破赤水蜀」

 528年(永安元年)、爾朱天光が雍州刺史に任命されて関中に向かったが、東雍州の「赤水蜀」の反乱軍が交通を遮断していた。爾朱天光は2000人ほどの少勢であったが、一撃して赤水蜀を粉砕している。このときの爾朱天光の部下には、賀抜岳・侯莫陳崇・李弼・寇洛らが従っていた。
 赤水とはどこか。河州臨洮郡に赤水県がある*11が、赤水蜀の赤水は地理的に明らかにここではない。爾朱天光の洛陽から関中への赴任の途中に遭遇したのであり、「東雍赤水」というから現在の陝西省渭南市の南の赤水のことである。山西の蜀集団の分派がこの地にあり、蕭宝寅の乱や万俟醜奴の乱で関中が混乱する最中に反北魏の旗幟を立てたのだろう。おそらくは小さなセクトの壊滅劇であるが、「蜀」集団の現存最後の記録となってしまった。その後にも「蜀」集団はいたのかもしれないが、記録に残らない以上は語りようもないことである。

*1: 『魏書』道武帝紀天興元年夏四月壬戌の条

*2: 『魏書』道武帝紀天興二年八月辛亥の条

*3: 『魏書』明元帝紀永興三年夏四月戊寅の条

*4: 『魏書』明元帝紀泰常三年春正月丁酉朔の条

*5: 『魏書』明元帝紀泰常八年正月丙辰の条

*6: 『魏書』太武帝紀太平真君六年十有一月庚申の条

*7: 『魏書』孝明帝紀孝昌二年六月己巳の条

*8:北斉書』薛脩義伝

*9: 『魏書』長孫稚伝

*10:北斉書』薛脩義伝

*11: 『魏書』地形志二下