「日出処の天子」の国書を煬帝に渡した都市は

gooのIDを相変わらず持ってないので、場末のブログに書いてしまいますが…。

遣隋使、小野妹子が国書を煬帝に渡した都市は。(教えて!goo
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5807629.html

607年(推古15年) 第2回遣隋使、小野妹子らは、「日出処の天子……」の国書を持参しました。
この国書を煬帝に渡した都は洛陽ですか、それとも長安ですか。

結論から言いますと、通説的には洛陽です。

外山軍治責任編集『中国文明の歴史5隋唐世界帝国』(中公文庫)P45

『隋書』東夷伝には大業三年に日本遣使の記事をのせているが、同書煬帝紀にはその翌年の大業四年三月の条に、倭が百済・赤土国その他といっしょに使いをつかわして方物を貢したと記している。東夷伝と一年の差があるが、おそらく四年三月に洛陽へきたのであろう。

宮崎市定『隋の煬帝』(中公文庫)P131

あたかも日本は推古天皇の御代で、聖徳太子摂政していたが、その八年、隋の文帝の開皇二十年に最初の遣使があり、ついで十五年、隋でいえば大業三年(六〇七年)に、小野妹子を派遣して隋に使せしめた。これは何よりも隋の国情を偵察して日本の国策樹立の資にするのが目的であったに違いない。翌年三月、妹子らは東都洛陽で煬帝に謁見したらしい。

いわゆる『隋書』倭国伝(『隋書』巻81列伝46東夷伝)には煬帝がどこで国書を受け取ったか推察する材料がありません。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/zuisho/frame/zuisho_frame.htm

大業三年、其の王、多利思北孤、使を遣し朝貢す。
使者曰う、「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。

えー、ないですね。

そこで見なければならないのは、『隋書』煬帝紀(『隋書』巻3帝紀3煬帝上)です。
大業4年(608年)のところに

三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。

とありますので、倭国伝と1年の差がありますが、これがくだんの「日出ずる処の天子」の倭国使だとみられています。
このとき煬帝がどこにいたかですが、煬帝紀の大業3年(607年)のところに

九月己未,次濟源。幸御史大夫張衡宅,宴享極歡。己巳,至于東都。

とあって、3年9月己巳に東都洛陽に到着しているのが分かります。以後、4年3月壬戌までのあいだに煬帝が移動した形跡がありませんので、くだんの国書は東都洛陽で受け取ったとみるのが自然ということになります。

もちろん大業4年ではなく大業3年のうちに煬帝紀の書かなかった倭国使の到着があった可能性もあります。煬帝紀をもとに大業3年の煬帝の移動の形跡をさらっておくと、
「三月辛亥,車駕還京師。」
「(四月)丙申,車駕北巡狩。」
「五月丁巳,突厥啓民可汗遣子拓特勤來朝。戊午,發河北十餘郡丁男鑿太行山,達于并州,以通馳道。」
「六月辛巳,獵於連谷。」
「甲辰,上御北樓,觀漁于河,以宴百僚。」
「八月壬午,車駕發楡林。」
「壬寅,次太原。」
「九月己未,次濟源。幸御史大夫張衡宅,宴享極歡。己巳,至于東都。」

3年3月に洛陽から長安・大興城に帰ってきたと思いきや、4月には北巡に出発し、突厥の啓民可汗といちゃいちゃした後、9月に東都洛陽にやってくるという次第です。『日本書紀』によると、小野妹子が出発したのが推古15年(607年)秋7月のことですから、到着もそれ以降でしかありえませんし、『日本書紀』や『隋書』の記述を信頼すると、洛陽で受け取った可能性が高いよって話です。

ちなみに

日本は「蛮夷の国」であるから、首都・長安で会うほどのことではない、ということでしょうか。

というのはまったくの穿ちすぎでして、煬帝が洛陽にいたのは偶然です。煬帝は在位中長安に腰を落ち着けたことがあまりありませんで、洛陽や江都やほかいろいろ巡幸していた期間のほうが下手すりゃ長いんじゃあるまいかというくらいな人です。倭国使を軽視していればこそ、倭国使のためにわざわざ下向するなどということはありえません。煬帝が重要視したがゆえに足労したのはこのばあい突厥ですね。足労というか、半分煬帝の趣味な気がしますけど。

中国文明の歴史〈5〉隋唐世界帝国 (中公文庫)

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隋の煬帝 (中公文庫BIBLIO)

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