定楊

趙翼『陔余叢考』巻十五

隋の煬帝の大業十三年(617)、突厥が劉武周を定楊可汗に立てた。『質実』は、定楊は郡名であると言う。調べると、楊は国姓であり、定は武力で平定するの意味で、郡名ではないのである。翌年、郭子和が楡林で起兵して北のかた突厥につくと、始畢可汗は郭子和を平楊天子とした。定楊、平楊と見るべきである。みな楊氏を平定するという意味を取るのだ。また騶力が呑漢将軍を称し(『史記』東越伝)、石勒が平晋王を称し(『晋書』後趙戴記)、尚譲が平唐大将軍を称している(『新唐書黄巣伝)ようなものだ。楊の字は木へんであってこざとへんではない。馮氏(『質実』の著者の馮智舒)は混同してしまったのである。郡名と解釈するのは、いわゆる屯毛を弁ぜず(似たものを分別できない)というものだ。