もうひとつの阿房宮

僕が中国史を囓りはじめたころは通説であった項羽阿房宮を焼き討ちしたという説ですが、阿房宮遺跡(陝西省西安市の西郊の阿房村にある。ちなみに阿房宮遺跡は上林苑遺跡の一部でもある)の発掘によって、焼失の痕跡が見つからず、項羽に焼かれたのは渭水の北の咸陽宮であり、渭水の南にあった阿房宮は焼かれていないという話になっています。『史記』の項羽本紀の「秦の宮室を焼き、火は三ヶ月間消えなかった」が、後世になって阿房宮のことと勘違いされていたもようです。

項羽は阿房宮を焼き払っていない、前殿の発掘調査で明らかに(中国通信社)
中国の三面記事を読む(274)「項羽が阿房宮を焼き払った」という話は歴史のウソ(有縁ネット)
阿房宮Wikipedia
阿房宮百度百科)

阿房宮は焼かれておらず、秦代には完成してすらいなかったというのが、現在の説なわけです。
しかし、阿房宮のミステリーはこれで終わらないのです。
史記』秦始皇本紀にいう「隠宮・徒刑の者七十余万人」を動員して工事にあたらせたという阿房宮。『漢書』賈山伝に「また阿房の宮殿をつくり、殿の高さ数十仞、〔庭の広さ〕東西が五里、南北が千歩にわたり、その高大なことは従車や行列の騎馬や四頭だての馬車が馳せめぐり、その旌旗も橈(たわ)むすきのないありさまでした」(小竹武夫訳『漢書5 列伝II』ちくま文庫、P082)という壮麗をうたわれた阿房宮は、いったいどうなったのでしょうか。
ちょうどいい記事があったので、文献史料を交えながら僕なりに語ってみましょう。
秦の阿房宮についての異なる観点(網易新聞)

漢書』東方朔伝の顔師古注に、「阿城、本秦阿房宮也、以其牆壁崇廣、故俗呼為阿城。」とあります。秦の阿房宮の広壮な牆壁が漢代にも残っており、そのために「阿城」と呼ばれていたことがわかります。

さてWikipediaの慕容沖の記事に現時点で「385年、慕容沖は阿房宮にて皇帝に即位、更始と改元した」という記事があるわけですが、これは正確ではありません。
『晋書』孝武帝紀に「慕容沖僭即皇帝位于阿房」とあり、『晋書』苻堅載記下に「慕容沖僭稱尊號於阿房、改年更始」とあるように、慕容沖が即位したのは「阿房」とされていて、阿房宮とは書かれていません。
同じく『晋書』苻堅載記下にこういう記述があります。
「堅又以尚書姜宇為前將軍、與苻琳率衆三萬、撃沖於灞上、為沖所敗、宇死之、琳中流矢、沖遂據阿房城。初、堅之滅燕、沖姊為清河公主、年十四、有殊色、堅納之、寵冠後庭。沖年十二、亦有龍陽之姿、堅又幸之。姊弟專寵、宮人莫進。長安歌之曰:「一雌復一雄、雙飛入紫宮。」咸懼為亂。王猛切諫、堅乃出沖。長安又謠曰:「鳳皇鳳皇止阿房。」堅以鳳皇非梧桐不栖、非竹實不食、乃植桐竹數十萬株於阿房城以待之。沖小字鳳皇、至是、終為堅賊、入止阿房城焉。」
前秦の淝水敗戦後、華北は分裂して関中には西燕の慕容氏の勢力が侵入してきます。前秦の苻堅は、姜宇や苻琳らに慕容沖を攻撃させたのですが敗退し、このため慕容沖は「阿房城」に拠ることとなります。同様の記述は、『魏書』慕容沖伝や『北史』慕容沖伝にもあります。つまり384年に慕容沖は苻堅を破って「阿房城」を本拠とし、385年に「阿房」で即位したということです。同じ関中地方で「阿房(城)」という以上、阿房宮の故地であることを思わせますが、断定はできません。
ちなみに『晋書』劉曜載記に「又奉敕旨復欲擬阿房而建西宮」という記述があるのですが、これは前趙劉曜が「阿房」のまねをして西宮を建てさせようとしたということですね。

謎はさらに混迷を深めます。『魏書』高祖孝文帝紀に「(太和二十一年、夏四月)辛未、行幸長安。(中略)戊寅、幸未央殿・阿房宮、遂幸昆明池。」とあります。同様の記述は、『北史』魏本紀第三にもあります。
洛陽遷都や漢化政策で知られる北魏の孝文帝ですが、497年4月に長安行幸し、未央殿・阿房宮に幸したというのです。未央殿は漢の長安城の未央宮のことで、阿房宮はもちろん秦の阿房宮でしょう。北魏の孝文帝は現に存在する建築物として阿房宮を見たのでしょうか。いかに焼かれてなかったとしても、700年以上も経って、秦代の阿房宮をそのまま見たとは思えません。おそらく阿房宮の跡を見たのでしょう。もし建造物があったとすれば、「阿城」か、もしくは慕容沖が整備した「阿房城」の宮殿があったのかもしれません。しかし慕容沖の宮殿説は文献にも発掘成果にも裏付けがない以上、憶測にとどまります。
旧唐書』高祖本紀に李世民渭水流域の「阿城」に駐屯したことを示す記述があり、遅くとも隋末唐初まではそれなりに多数の人の住むことのできる拠点だったわけです。
以上、文献史料はいろいろ疑う余地があるので、今後の考古発掘で隙を埋めていってほしいものだと思います。