始皇帝の称帝年代が早まったとかなんとか

秦代の銅勺は実に珍しい 六国を統一する前に秦王はすでに皇帝を称していた(新華網)
日本語訳してみようと思ったけど、途中で面倒くさくなり、投げた。お見苦しいかぎり。
ちなみに秦王二十六年=始皇二十六年は西暦の紀元前221年。二十三年は紀元前224年。単に始皇帝の称帝年代だけの問題だけでなく、秦の三十六郡問題や度量衡問題も含んでいるニュース。正直いまのところ、こういうこと言ってる学者がいるよくらいで認知しといたほうが良さそうな気がする。くだんの銅勺の来歴がどうもはっきりしないし。

秦王二十六年、六国は統一され、天下が三十六郡に分けられて、号して皇帝となり、あわせて度量衡が統一されたことは、世人のみな知るところである。昨日(17日)、記者が南京博物院の江蘇省で唯一の国家級青銅器考古鑑定専門家である王金潮から知りえたところによると、少し前にひとりの個人収集家が地方からやってきて、かれにとても精巧で美しい小さい銅器を示し、「太原」の銅勺(銅さじ)であると言った。王金潮の見た感じ銅勺はとても小さかったが、上面の銘文は尋常なものではなかった。それは秦王政が「皇帝」を称したのが、司馬遷史記』の記載する秦王二十六年より3年早いことを証明していた。

王金潮は、「この銅勺は秦の始皇二十三年に九原で半升を詔により量ったものです。今までに始皇二十六年に先立つ発見としては初めてのものであり、詔が下って青銅量器を製作し皇帝に奉じたという銘文が鋳られていて、銘文の言及する内容の意義は重大です。」王金潮はコンピュータ上のかれが撮影したという銅勺の写真を記者に見せた。それは1本の長い柄の楕円形のさじで、全長は30センチメートル、重さは205グラムという。さじの口の長さは9.5センチメートル、幅は6.5センチメートル、深さは約2センチメートル。柄の長さは26.5センチメートルで、柄の中部には有一个加粗带鉔的节、柄尾有一环钮、内连铸有一个单环。“整件器物虽朴实无华、但给人以材质与形式统一的美感。銅勺の内には文字計21字が鋳られている。鋳られた字は浮き彫りで、字体は秦の小篆である。銘文は「二十三年九原丞奉皇帝乃詔詘造工孟臣半升王平」。王金潮は、この種の銘文と字体、および器の形は秦朝だけにあるのものだという。

「この21個の鋳字は浮き彫りで標準的な小篆であり、私たちが抱えている秦朝の歴史上の2つの論争問題をはっきりさせることができます。」王金潮はいう。ひとつは秦王政が皇帝を称した年代はどの一年なのか?第二に九原郡はいつ秦に属したのか?司馬遷の『史記』秦始皇本紀の記載によると、秦王政が称帝した年代は秦王二十六年であり、秦始皇本紀の中では首句の「秦始皇帝者」を除いて、以下にある二十六年の事件中は終始「秦王」を用いて、「皇帝」の称号を用いていない。王金潮认爲、「『史記』对史料编述得较详细、但对事件的叙述笔墨不多。銘文中の二十三年は始皇二十三年であり、秦王政が二十三年にはすでに帝を称していたことを説明する。秦始皇統一中国要做的事情不可能只是一年或两年时间、司馬遷爲了叙述方便、也就在『史記』中概括了。」

銅勺の銘文の中の「九原」は、秦朝のときの郡名を指しており、内モンゴル自治区ウラト旗の東南境にあり、現在の包頭の一帯にあたる。三十六郡の郡名は最も早いもので劉宋の裴駰の『史記集解』にあり、三十六郡の中に九原を含んでいた。しかし清代の乾隆・嘉慶時期の幾人かの学者たちはこれに異議を提出し、南朝宋の裴駰の記載は後世のものとして、信頼できないとした。而直接引用『史記』对其注释、得出九原爲秦始皇三十三年所置。既然出自『史記』、爲何给后人留下如此异议?王金潮解释説、司馬遷编撰『六国年表』时感叹、秦王称帝烧天下诗书、史記大多被烧毁。而秦記、日月文略記載不全、司馬遷很无奈。「この銘文銅勺の発見で、『史記』の中の、九原が秦の始皇二十六年にあり、天下を三十六郡に分けたときにすでに秦の郡であったとする記載を信ずるべきであると実物で証明した。」

这件銘文銅勺究竟是什么器物?王金潮判断它是一件打酒的挹量器、但它的容量却不足、这又是爲何?王金潮説、“記得儿时在故乡杭州、常常爲長者去酒店打酒、店家用竹做的酒端子卖酒、半斤、一斤就是二个長柄的竹端子、而这二个同样的竹制酒端子、却可根据店家在酒坛到酒瓶之间停留时间的快慢、打出半斤、或不足半斤的酒、而酒的粘度不同、还可打出多于半斤的酒、这是酒店伙计必备的技能、这可以解释这件挹酒器爲何比一般量器要小。”(蔡震)