中国の妖賊(一)

国史上において、王朝に武力反抗した集団の頭目のことは、史料上で「盜賊」と書かれた。その中でもマジック(奇術・妖術)を用いて民衆を惑わし反抗を扇動したとみられたものは「妖賊」と書かれた。あくまで王朝中心の史観で用いられたタームであることには充分留意されたい。
後漢書』順帝本紀
「三月、楊州六郡の妖賊章河らが四十九県を寇し、長吏を殺傷した。」
後漢書桓帝本紀
「二月、扶風の妖賊裴優が皇帝を自称し、誅に伏された。」
後漢書桓帝本紀
勃海の妖賊蓋登らが太上皇帝を称し、玉印・珪・璧・鉄券を有し、相署を置くと、みな誅に伏された。」
後漢書』清河孝王慶伝
「建和元年、甘陵の人劉文と南郡の妖賊劉鮪が結託して、清河王(劉蒜)が天子として統べるべきであるといつわりの流言を広め、ともに(清河王)蒜を立てようとした。」
後漢書』臧洪伝
「熹平元年、会稽の妖賊許昭が句章で起兵し、大将軍を自称した。」
三国志』魏書張魯伝裴注
「『典略』が言うには、熹平年間に妖賊が大いに起こり、三輔に駱曜がいた。光和年間には、東方に張角がおり、漢中に張脩がいた。」
三国志』呉書孫破虜伝
「会稽の妖賊許昌が句章で起兵し、陽明皇帝を自称した。」
『晋書』海西公紀
「広漢の妖賊李弘と益州の妖賊李金根が人々を集めてそむき、李弘は聖王を自称し、一万人あまりを集めた。梓潼太守の周虓がこれを討ち平らげた。」
『晋書』海西公紀
「十一月、妖賊の盧悚が弟子の殿中監許龍を派遣して(海西公を幽閉している)その門に朝がた向かわせ、皇太后の密詔と称して、(海西公を)迎え奉って復位させようとした。」
『晋書』孝武帝
「十一月甲午、妖賊の盧悚が宮殿の庭に朝がた侵入したので、游撃将軍の毛安之らがこれを討ちとらえた。」
『晋書』孝武帝
「彭城の妖賊劉黎が皇丘で皇帝を僭称した。龍驤将軍の劉牢之がこれを討ち平げた。」
『晋書』孝武帝
「閏月、妖賊司馬徽が馬頭山で仲間を集めた。劉牢之が部将を派遣してこれを討ち平げた。」
『晋書』安帝紀
「十一月甲寅、妖賊孫恩が会稽を落としたので、内史の王凝之がここで死に、呉国内史の桓謙と臨海太守の新蔡の王崇と義興太守の魏隠はそろって官を捨てて遁走し、呉興太守の謝邈と永嘉太守の司馬逸はともに殺害された。」
中途半端に切ってるので(一)と題を打ったが、筆者の気がむかなければ(二)は書かないと思う。申し訳ない。