『山月記』の袁傪が将軍だった件

 中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとなった実在の袁傪について述べており、『山月記』の袁傪の人格や毀誉褒貶に一切関わりがないことを特に申し添えておきます。

 さてはじめに袁傪の出自や前半生を語りたいところですが、ほとんど何も分かりません。正史に袁傪の列伝がないので、まとまった伝記というものがないのです。まずは袁傪の出身地が不明です。『全唐文』巻396に見える「姚令公元崇書曹州布衣袁參頓首」の「袁參」が袁傪という説もありまして、これを採るなら曹州(済陰郡)の人になります。ちなみに袁傪の本貫を陳郡(陳州)とするのは、李徴とからむ『宣室志』人虎伝系の説話が生まれて以降の設定のようで、まともな史書には見えません。陳郡袁氏は名族ですので、そういう設定が後付けで作られたのでしょう。

 大唐故東平郡鉅野県令頓丘李府君墓誌銘(李璀墓誌)によると、袁傪は鉅野県令をつとめた李璀の次女を妻に迎えました。ちなみに李璀は748年(天宝7載)に72歳で死去しており、その夫人の博陵崔氏はその翌年に56歳で亡くなっています。

 袁傪が756年(天宝15載)に進士に及第したという説がありますが、これも人虎伝系説話が李徴を天宝15載の進士としており、袁傪が同期とされることからの附会でしょう。袁傪が史書の片隅に名を残したのは、李光弼の部下として袁晁・陳荘・方清の3つの反乱を鎮圧し、軍事的功績を挙げたからです。『新唐書』劉晏伝に「上元、寶應間,如袁晁、陳莊、方清、許欽等亂江淮,十餘年乃定」と粛宗・代宗期の江淮における4つの反乱が挙げられていますが、袁傪はそのうち3つを平定していることになります。まずは台州の袁晁の乱から見ていきましょう。

 『旧唐書』代宗紀宝応元年八月庚午の条に「台州賊袁晁陷台州,連陷浙東州縣」とあるのが、袁晁の乱のはじまりです。代宗紀での袁傪の記述は宝応二年三月丁未の条に「丁未,袁傪破袁晁之眾於浙東」とあり、763年に袁晁の反乱軍を浙東で撃破したという簡潔な記述にとどまっています。

 『旧唐書』王栖曜伝では宝応の次の広徳年間のこととされていますが、「廣德中,草賊袁晁起亂台州,連結郡縣,積眾二十萬,盡有浙江之地。御史中丞袁傪東討,奏栖曜與李長榮為偏將,聯日十餘戰,生擒袁晁」とあります。袁晁が台州で反乱を起こし、20万の人々を集め、浙江全域を領有した。御史中丞の袁傪が東征し、王栖曜と李長栄が偏将となり、連日十数戦して、袁晁を生け捕りにしたというのです。

 李肇『唐国史補』巻上によると、「袁傪之破袁晁擒其偽公卿數十人州縣大具桎梏謂必生致闕下傪曰此惡百姓何足煩人乃各遣笞臀而釋之」といい、袁傪は公卿を称していた袁晁軍の幹部数十人を捕らえると、かれらに桎梏を嵌めて「百姓が人を煩わせおって」といい、その臀部を笞打って釈放させたといいます。心底からの民衆蔑視なのか、それを装った温情なのか、解釈は分かれるかもしれません。

 『全唐詩』巻148にみえる劉長卿の「和袁郎中破賊後軍行過剡中山水謹上太尉」や同巻207にみえる李嘉祐「和袁郎中破賊後經剡縣山水上太尉」や同巻250にみえる皇甫冉「和袁郎中破賊後經剡中山水」といった詩題があります。袁郎中は袁傪を指し、太尉は李光弼を指しています。これらの詩は袁傪が李光弼の部下として袁晁の乱を鎮圧した後、越州剡県の名勝地を李光弼に見せて回ったときのことを詠んだものです。

 さて、烏石山の陳荘の乱・石埭城の方清の乱に進みましょう。

 『文苑英華』巻566の「賀袁傪破賊表」によると、「臣某等言臣等伏見河南副元帥行軍司馬太子右庶子兼御史中丞袁傪露布奏今年五月十七日破石埭城賊方清并降烏石山賊陳莊等徒黨二萬五千五百人者」といい、河南副元帥行軍司馬・太子右庶子・兼御史中丞の官にあった袁傪が石埭城の反乱軍の方清を破り、烏石山の反乱軍の陳荘を降伏させたようです。ちなみに河南副元帥は李光弼の官であり、行軍司馬はその軍事面の副官にあたります。

 『新唐書』地理志五によると、池州秋浦県に烏石山があり、広徳初年に陳荘・方清の反乱軍が拠ったとされています。また同志には、765年(永泰元年)に方清の反乱軍が歙州を陥落させ、766年(永泰2年)に方清の乱が鎮圧されたことがみえます。「賀袁傪破賊表」の「今年」は、766年のこととみるべきでしょう。

 『全唐詩』巻252に袁傪の現存唯一の詩が収録されています。

喜陸侍御破石埭草寇東峰亭賦詩 袁傪
古寺東峰
登臨興有餘
同觀白簡使
新報赤囊書
幾處閒烽堠
千方慶里閭
欣欣夏木長
寂寂晚煙徐
戰罷言歸馬
還師賦出車
因知越范蠡
湖海意何如

 題は「陸侍御が石埭の草寇を破ったのを喜び、東峰亭に詩を賦す」といったところです。陸侍御とは陸渭のことであり、『新唐書』蕭穎士伝に「如李陽、李幼卿、皇甫冉、陸渭等數十人,由奬目,皆為名士」と列せられた名士です。石埭の草寇とは方清率いる石埭城の反乱軍のことです。趙紹祖『涇川金石記』に旧志を引いて「唐御史中丞袁傪命判官殿中侍御史陸渭以石埭寇方清已,以後軍次涇上」というように、陸渭はどうやら袁傪の部下として方清の乱の鎮圧に従事したらしいのです。同じ主題の詩は崔何・王緯・郭澹らにも詠まれており、袁傪をめぐる人間関係がうっすら見えてくるようでもあります。

 ここで袁傪の部下についても簡単に紹介しておきましょう。王栖曜・李長栄・陸渭らについては上述したので繰り返しません。『旧唐書』李自良伝に立伝されている李自良は「後從袁傪討袁晁陳莊賊」といい、袁傪に従って袁晁・陳荘の乱を討ったことが明記されています。『韓愈文集』所収の「崔評事墓銘」には、広徳年間に袁傪が袁晁を討ったとき、崔翰が偏将をつとめたことが見えます。

 さて、『唐僕尚丞郎表』巻18によると、袁傪は777年(大暦12年)から尚書兵部侍郎をつとめていたようです。長安の中央官界に入っても軍務畑からは離れられなかったようです。この年の元載の弾劾取り調べに袁傪ら6人が関わっていたことが、両唐書の元載伝や劉晏伝に見えます。

 最後に袁傪が顔真卿に喧嘩を売った話をしなくてはなりますまい。ことは779年(大暦14年)の話です。『旧唐書』徳宗紀大暦十四年秋七月戊辰朔の条に「秋七月戊辰朔,日有蝕之。禮儀使、吏部尚書顏真卿奏:「列聖諡號,文字繁多,請以初諡為定。」兵部侍郎袁傪議云:「陵廟玉冊已刻,不可輕改。」罷。傪妄奏,不知玉冊皆刻初諡而已」(秋7月1日に日食があった。礼儀使・吏部尚書顔真卿が「列聖の諡号は文字がやたら多いので、初諡によって定めるようお願いします」と上奏した。兵部侍郎の袁傪が「陵廟の玉冊はすでに刻まれているので、軽々しく改めるべきではない」と反論したので、取りやめられた。袁傪の反論は間違いで、玉冊にはみな初諡が刻まれているのを知らなかったのだ)とあります。

 この話は顔真卿伝にもあって、列聖の諡号とは高祖(李淵)以下の七聖の諡号であると分かります。高祖李淵の例でいうなら「神堯大聖大光孝皇帝」とか長いやつですね。顔真卿はこれを初諡の「大武皇帝」に戻そうと提案したのです。袁傪は皇帝陵墓と宗廟の玉冊にはすでに長い当時最新の諡号が刻まれていると勘違いして、ピント外れな反論をおこなったのですが、その反論が通って顔真卿の提案は退けられてしまったのですね。

 顔真卿は書家として有名な人ですが、安史の乱に対する義兵を起こして抵抗した軍事指導者でもありまして、袁傪の旧主である李光弼のライバルでもありました。李光弼は大暦年間にはとっくに亡くなっていましたが、もしかしたら古い確執が尾を引いてこの奇妙で短い論争へと導いたのかもしれません。

 袁傪の晩年と最期については、その前半生と同様に不明です。もし今後に何か新たなことが分かるとするなら、それは袁傪の墓誌が出土したときかもしれません。

内史騰は韓の降将なのか

 Wikipedia日本語版「内史騰」記事を読んでいたら、現行版(2020-08-05T15:24:26の版)に
「紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。」
と書かれていました。
 中文版の「內史騰」記事にも、
「秦王政十六年(前231年),韓王安獻出南陽一帶的土地(今河南境王屋山(太行山餘脈)南、黃河以北地區)向秦稱臣。同年九月,秦王政委任韓國降將騰(後來的內史騰)代理南陽守一職。」
とあります。内史騰は韓から秦に降伏した将軍で、韓から南陽の地を譲られて秦の南陽郡が立てられると、南陽郡守の代行とされたという解釈ですね。

 これらの記述の根拠となる『史記』秦始皇本紀始皇十六年の条には
「十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰」
とあります。
 この箇所をちくま『史記』(ちくま文庫I巻p.142)は
「十六年九月、卒を発し、韓の南陽の地を受け、内史の騰を仮の守とした」と訳しています。ちくま訳が「内史」を勝手に補っていることは、ひとまず不問にしておきますが、騰が韓の出身者という文脈を読むことはできません。

 さて、現存最古のテクストである黄善夫本の宋版史記
https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/sohanshiki/h-172-9
の13コマ目を見ると、
「十六年九月ニ卒ヲ發地ヲ韓ノ南陽ノ假リノ守騰ニ受」
と読んでいるらしいことが分かります。現代語的に読むなら「十六年九月に兵を発し、地を韓の南陽の仮の守の騰から受けとった」というあたりですかね。
 騰が韓の南陽仮守であるという解釈なことと、騰が韓から降ったとははっきり書かれていないことがわかります。ただ続く始皇十七年の条に「十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地」とあることから、韓の南陽仮守騰と韓を滅ぼした秦の内史騰を同一人物とみなし、韓から降ったとみなす解釈は十分ありえます。内史が官名なのだとすれば、韓からの降伏者を一年ほどで首都の長官に昇任させたことになりますが、秦はたびたび外国出身者を相邦・丞相の高位に登用している国ですので、全く不自然でありえないとは言えません。

 瀧川亀太郎『史記会注考証』は「卒を発し、韓の南陽の地を受け、内史騰を仮守とした」とする方苞の説を挙げており、ちくま訳はこちらの解釈を踏襲しているんですね。

 現時点の結論としては、解釈は複数あり、内史騰を韓の降将とするのも一説としてありえるというところです。

河東蜀、絳蜀、赤水蜀、あるいは常敗の河東薛氏の経営術

 「蜀」というと、現在の四川省成都市一帯に置かれた蜀郡や現在の四川省の簡称としての蜀といった地名、あるいは秦に滅ぼされた古蜀や三国の蜀漢五代十国前蜀後蜀などの国号のいくつかが思い浮かぶ。いずれも成都一帯の土地と紐つけられているには違いない。しかし今回取り上げるテーマは成都から遠く離れた山西の地にいた「蜀」の話である。

 まずは『魏書』道武帝紀の
「鄜城屠各董羌、杏城盧水郝奴、河東蜀薛楡、氐帥符興,各率其種内附」*1
を挙げよう。屠各(匈奴)の董羌・盧水胡の郝奴・氐の符興といった人物と並んで、「河東蜀」の薛楡なる人物が北魏の道武帝に帰順したことを示す記事である。「其種」というから河東蜀が種族的に扱われていることは間違いない。河東は当時の河東郡のことであり、現在の山西省運城市一帯に相当する。

 次いで同じく道武帝紀の
「西河胡帥護諾于、丁零帥翟同、蜀帥韓礱,並相率内附」*2
に見える蜀の帥である韓礱も西河胡や丁零の将帥と併記されており、蜀が種族的・民族的に扱われている例といえる。

 河東蜀は北魏の道武帝から太武帝の時代にその活動が見られる。
『魏書』明元帝
「夏四月戊寅,河東蜀民黃思、郭綜等率營部七百餘家内屬」*3
「河東胡蜀五千餘家相率内屬」*4
「河東蜀薛定、薛輔率五千餘家内屬」*5
『魏書』太武帝
「河東蜀薛永宗聚黨盜官馬數千匹,驅三千餘人入汾曲,西通蓋吳,受其位號」*6

 やはり気になるのが、河東蜀の人物として薛楡・薛定・薛輔・薛永宗のように薛氏の人物が頻出することである。『魏書』薛弁伝が「其先自蜀徙於河東之汾陰,因家焉」と述べていることとの関連も見える。とどめは『魏書』盧水胡沮渠蒙遜伝に「真君中,遂與河東蜀薛安都謀逆」とあることで、北魏南朝宋のあいだを縦横往来した河東薛氏の大立者である薛安都が河東蜀とされていることである。「河東蜀」は河東郡汾陰県(現在の山西省運城市万栄県)を本貫とする河東薛氏と同一と言わないまでも、かなり関連の深い集団であると言わざるを得ない。薛弁伝の記述を重視するなら、先祖が蜀から河東郡に移住してきたとされる河東薛氏を含む集団が「河東蜀」と呼称されたのだろう。なお薛永宗は『宋書』薛安都伝に薛安都の宗人(一族)として同名の人物が見える。

 河東蜀の記述は太平真君年間を最後に途絶えているが、これは446年(太平真君7年)に薛安都が北魏から南朝宋に亡命し、薛真度ら河東薛氏の多くも薛安都に従って南遷したことが理由だろう。この南遷も前年に河東蜀の薛永宗が官馬数千匹を盗み、蓋呉の乱と連携したことに端を発している。薛安都や薛真度らは467年(皇興元年)に北魏に復帰するが、以後は再びかれらを「河東蜀」と呼ぶ史料を見ることはできない。

 集団としての「蜀」の記録は北魏の太平真君年間から約80年の断絶を経て史料に現れる。北魏の後期に再び現れた蜀は河東郡や河東薛氏の枠のみでは捉えられなくなっていく。
『魏書』孝明帝紀
「絳蜀陳雙熾聚眾反,自號始建王」*7
『魏書』裴良伝
「時南絳蜀陳雙熾等聚眾反,自號建始王,與大都督長孫稚、宗正珍孫等相持不下」
『魏書』長孫稚伝
「尋而正平郡蜀反,復假稚鎮西將軍、討蜀都督,頻戰有功,除平東將軍,復本爵」
『魏書』河間王若伝
「後討汾晉胡、蜀」
『魏書』裴慶孫伝
「於後賊復鳩集,北連蠡升,南通絳蜀,兇徒轉盛,復以慶孫為別將,從軹關入討」
『魏書』費穆伝
「孝昌中,二絳蜀反,以穆為都督,討平之」
『魏書』李苗伝
「俄兼尚書右丞,為西北道行臺,與大都督宗正珍孫討汾、絳蜀賊,平之」
『魏書』源子恭伝
「加後將軍,平絳蜀反」
「俄而建興蜀復反,相與連勢」
「正平賊帥范明遠與賊帥劉牙奴並面縛請降」
『魏書』尒朱栄伝
「兩絳狂蜀,漸已稽顙」

 526年(孝昌2年)、「絳蜀」の陳双熾が北魏に対して反乱を起こした。反乱の手は北絳郡・南絳郡・正平郡・建興郡など現在の山西省南部に広がった。これらの郡は河東郡の近隣に位置しているが、河東薛氏の対応は屈折したものだったようだ。『北斉書』薛脩義伝に「絳蜀賊陳雙熾等聚汾曲,詔脩義為大都督,與行臺長孫稚共討之」と見えるように、河東薛氏の薛脩義は長孫稚とともに反乱鎮圧に加担した。しかし長孫稚・宗正珍孫らの北魏の官軍は正平郡の蜀の討伐に苦戦してしまう。陳双熾の反乱は李苗・費穆・源子恭らによって鎮圧されたことにされているが、実際には官軍の勝利は限定的で、何らかの条件講和が図られたのではないか。反乱の首領である陳双熾が生存しているほか、正平郡の反乱軍の首領の范明遠や劉牙奴らも降伏を許されている。後段にみるように陳双熾はその後も攻勢に出られるほどの軍勢を保持していたとみられる。

 翌527年(孝昌3年)、蕭宝寅が関中で反乱を起こすと、薛脩義の宗人の薛鳳賢が蕭宝寅に呼応して正平郡で起兵した。薛脩義は薛鳳賢に呼応して河東郡で起兵し、塩池に拠り、蒲坂を包囲した*8。長孫稚は孝明帝に蕭宝寅討伐の命を受けて西征の任にあたり、潼関を落としたものの河東郡への転進を余儀なくされた*9。『魏書』楊侃伝に長孫稚のことばとして「薛脩義已圍河東,薛鳳賢又保安邑,都督宗正珍孫停師虞坂,久不能進」といい、薛脩義と薛鳳賢に挟まれた苦境をこぼしている。『魏書』長孫稚伝によると、このとき塩池の税を廃止するよう孝明帝に上奏している。唐突に見える提議であるが、ほどなく薛脩義は早々に降伏し、薛鳳賢も続いて降って許された。薛脩義がその反乱に際して塩池に拠っていることと考え合わせると、河東薛氏の反乱自体が河東郡解県の塩池(解池)の利権をめぐる条件闘争だったのではないかと思われる。河東薛氏にとって有利な妥結を得たので、あっさり降伏したのではないか。

 その後のことであるが、『魏書』樊子鵠伝に「元顥入洛,薛脩義及降蜀陳雙熾等受顥處分,率眾攻州城。子鵠出與戰,大破之,又破脩義等於土門」という記述がある。北魏の北海王元顥が南朝梁に擁せられて魏帝を称し、洛陽を占拠した。このため北魏の孝荘帝は河内郡に避難を余儀なくされている。529年(永安2年)のことである。このとき薛脩義と陳双熾は元顥につき、晋州の州城を攻撃した。両者は土門で晋州刺史の樊子鵠に敗れてやむなく退いている。薛懐儁墓誌によると、薛真度の子の薛懐儁が北海王元顥の下で長史をつとめており、薛脩義が元顥に加担したのもそうした関係によるものかもしれない。

 陳双熾のその後は不明だが、薛脩義は北斉の初年までしぶとく生き延びている*10。「絳蜀」と河東薛氏の関係は一筋縄ではなかったものの、陳双熾と薛脩義の一連の行動からは、密接な関係にあったとみるべきだろう。河東薛氏は薛脩義の二度の軍事的失敗にも関わらず、大した傷を負ったようにも見えず、隋唐以降も河東郡(蒲州)の名族として繁栄していくことになる。

 いっぽう集団としての「蜀」は衰退し、史料からは消えていくこととなる。その最後を追ってみよう。

『魏書』尒朱天光伝
「時東雍赤水蜀賊斷路」
『周書』李弼伝
「永安元年,爾朱天光辟為別將,從天光西討,破赤水蜀」
『周書』侯莫陳崇伝
「後從岳入關,破赤水蜀」

 528年(永安元年)、爾朱天光が雍州刺史に任命されて関中に向かったが、東雍州の「赤水蜀」の反乱軍が交通を遮断していた。爾朱天光は2000人ほどの少勢であったが、一撃して赤水蜀を粉砕している。このときの爾朱天光の部下には、賀抜岳・侯莫陳崇・李弼・寇洛らが従っていた。
 赤水とはどこか。河州臨洮郡に赤水県がある*11が、赤水蜀の赤水は地理的に明らかにここではない。爾朱天光の洛陽から関中への赴任の途中に遭遇したのであり、「東雍赤水」というから現在の陝西省渭南市の南の赤水のことである。山西の蜀集団の分派がこの地にあり、蕭宝寅の乱や万俟醜奴の乱で関中が混乱する最中に反北魏の旗幟を立てたのだろう。おそらくは小さなセクトの壊滅劇であるが、「蜀」集団の現存最後の記録となってしまった。その後にも「蜀」集団はいたのかもしれないが、記録に残らない以上は語りようもないことである。

*1: 『魏書』道武帝紀天興元年夏四月壬戌の条

*2: 『魏書』道武帝紀天興二年八月辛亥の条

*3: 『魏書』明元帝紀永興三年夏四月戊寅の条

*4: 『魏書』明元帝紀泰常三年春正月丁酉朔の条

*5: 『魏書』明元帝紀泰常八年正月丙辰の条

*6: 『魏書』太武帝紀太平真君六年十有一月庚申の条

*7: 『魏書』孝明帝紀孝昌二年六月己巳の条

*8:北斉書』薛脩義伝

*9: 『魏書』長孫稚伝

*10:北斉書』薛脩義伝

*11: 『魏書』地形志二下

唐代に現れた漁火

「漁火」は夜間の漁で魚を集めるために焚かれる火のことだが、「漁火」の語が現れるのは唐代のこと。
『全唐詩』を引くと、
趙冬曦(677-750)の「和尹懋秋夜游𥖹湖二首」に「鶴聲聒前浦,漁火明暗叢」 といい、
錢起(722?-780)の「送元評事歸山居」に「水宿隨漁火,山行到竹扉」といい、
韓愈(768-824)の「陪杜侍御遊湘西兩寺獨宿有題一首因獻楊常侍」に「山樓黑無月,漁火燦星點」 といい、
元稹(779-831)の「答姨兄胡靈之見寄五十韻」に「雨摧漁火燄,風引竹枝聲」といい、
姚合(779?-855?)の「題河上亭」に「岸莎連砌靜,漁火入窗明」 といい、
周賀(生没年不詳)の「潯陽與孫郎中宴迴」に「潯陽渡口月未上,漁火照江仍獨眠」といい、
許渾(791?-858?)の「新興道中」に「夜榜歸舟望漁火,一溪風雨兩巖陰」といい、
薛逢(生没年不詳)の「送慶上人歸湖州因寄道儒座主」に「夜雨暗江漁火出,夕陽沈浦雁花收」といい、
劉滄(生没年不詳)の「江行夜泊」に「岳陽秋霽寺鐘遠,渡口月明漁火殘」という。
漁火を用いる漁法が遅くとも8世紀には現れていたと言えるだろう。

537年の危機

 西暦535年に起こったインドネシアのクラカタウ火山の噴火によって世界的な寒冷化と飢饉が発生したという説があるのですが、
https://honz.jp/articles/-/1456
https://gigazine.net/news/20181222-worst-year-in-human-history/
https://en.wikipedia.org/wiki/Extreme_weather_events_of_535%E2%80%93536
国史料からは「537年の危機」と呼ぶほうが適切かと思われます。興味深いのは『南史』の記述で、535年と536年に黄塵が雪のように降ったとか、537年の初秋に青州で雪が降ったとか、降灰や寒冷化を思わせる内容を含んでいます。

 『梁書武帝紀下
「(大同三年)九月,南兗州大饑」
「(大同三年)是歳,饑」

 『南史』梁武帝紀中
「(大同元年)冬十月,雨黃塵如雪。」
「(大同二年)十一月,雨黃塵如雪,攬之盈掬」
「(大同三年)秋七月,青州雪,害苗稼」
「(大同三年)是歳饑」

 『周書』文帝紀
「(大統三年)是歳,關中饑」

 『北斉書』神武紀下
「(天平四年)二月乙酉,神武以并、肆、汾、建、晉、東雍、南汾、泰、陝九州霜旱,人饑流散,請所在開倉賑給」

  『北史』魏本紀五
「(大統二年)是歳,關中大飢,人相食,死者十七八」
「(天平三年)八月,幷、肆、涿、建四州霜霣,大飢」

 

 この自然災害の最中にも戦争をしていたのが、東魏の高歓と西魏の宇文泰で、恒農(弘農)や沙苑で激戦していたりするのが救えません。飢えたからこそ敵から奪う選択に走るのかもしれませんが。

長陵に移住した六国の王族たち

 『史記』劉敬列伝に劉敬(婁敬)の発言として「臣願陛下徙齊諸田,楚昭、 屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中」と見える。劉敬は戦国時代の六国の王族の後裔や豪傑名家を関中に移住させるよう提言している。匈奴対策と関中強化を名目としているが、旧六国の首脳を当地から引き剥がすことで、その復活を防ぎ、秦末の乱の再現を阻止しようとしたものだろう。劉敬の案は漢の高祖劉邦に採用された。『史記』高祖本紀の高祖九年の条に「是歳,徙貴族楚昭、屈、景、懷、齊田氏關中」というから、紀元前198年に移住は実行された。

 『漢書』地理志下ではこのことを「漢興,立都長安,徙齊諸田,楚昭、屈、景及諸功臣家於長陵」と言っている。長陵県は漢の高祖劉邦の陵墓の地であり、六国の王族たちが漢の初代皇帝の墓守にされるという皮肉も感じられる。

 『漢書外戚伝に「臧兒更嫁為長陵田氏婦,生男蚡、勝」とあり、ここの「長陵田氏」は漢初に長陵県に移住させられた「齊諸田」のことだろう。武帝のときに丞相に上った田蚡も斉の田氏の子孫だったことになる。『漢書』車千秋伝によると、昭帝のときに丞相に上った車千秋は「本姓田氏,其先齊諸田徙長陵」であるという。

 『後漢書』第五倫伝によると、章帝のときに司空に上った第五倫は「京兆長陵人」であり、「其先齊諸田」と明記されている。『後漢書』趙岐伝によると、『孟子章句』や『三輔決録』で知られる趙岐は「京兆長陵人」である。『後漢書王允伝によると、相国の鍾繇の下で長史をつとめた趙戩は「長陵人」である。

 晋代のころには、すでに長陵県は廃止されており、六国の王族の子孫を史料から追うことはできなくなる。後漢末以来、社会の流動性が極端に高まっており、当地にとどまり続ける者も少なくなっていたことだろう。

苻洪の改姓

 『晋書』苻洪載記によると、前秦の祖の苻洪の本姓は蒲であり、讖文に「艸付應王」とあり、またその孫の堅の背に「艸付」の字があったことを理由に、永和六年(350年)に苻氏に改姓したとされている。この改姓の理由は怪しい。

 『三国志』蜀書後主伝の建興十四年の条に「徙武都氐王苻健及氐民四百餘戸於廣都」とあり、三国の蜀漢の建興十四年(236年)に武都氐王の苻健と氐民400戸あまりが蜀郡広都県に移されていたことがわかる。この苻健は苻洪の子の前秦初代苻健とはもちろん別人である。苻健の広都移住の事情については、同書の張嶷伝や『華陽国志』劉後主志にやや詳しいが、ここでは省く。

 『晋書』宣帝紀青龍三年の条に「武都氐王苻雙、強端帥其屬六千餘人來降」とあり、三国の魏の青龍三年(235年)に武都氐王の苻双と強端が麾下6000人あまりを率いて司馬懿に降ったことがわかる。ちなみにこの苻双は前述の武都氐王苻健の弟である可能性が高い。

 3世紀の段階で氐王を称する苻氏が存在したのであり、苻洪の改姓が事実としても、前世紀以来の氐の名族の姓を借りたものだろう。讖文や苻堅の背中の字などは後付けで作られた伝説と思われる。