秦の丞相にならなかった沈逞

宋書』巻100自序は、『宋書』の編纂者である沈約の一族(呉興沈氏)について色々書いている。
「秦末有沈逞,徵丞相,不就。漢初逞曾孫保,封竹邑侯」

秦末に沈逞という人物があり、丞相として召されたが、就任しなかった。漢初に沈逞の曾孫の沈保がいて、竹邑侯に封じられた。

新唐書』巻74上宰相世系4上には、
「郢字文明,召為丞相,不就,生平。平字俊之,封竹邑侯,生遂。遂字佐時,秦博士。生倧,字文甫,左庶長、竹邑侯,生遵。遵字伯吾,漢齊王太傅、敷德侯,徙居九江壽春」
とある。

沈郢は字を文明といい、丞相として召されたが就任せず、沈平を生んだ。沈平は字を俊之といい、竹邑侯に封じられ、沈遂を生んだ。沈遂は字を佐時といい、秦の博士となり、沈倧を生んだ。沈倧は字を文甫といい、左庶長・竹邑侯となり、沈遵を生んだ。沈遵は字を伯吾といい、漢の斉王の太傅となり、敷德侯に封じられ、九江郡寿春県に移り住んだ。

…というわけだが、丞相にならなかったという沈逞もしくは沈郢にしろ、あるいは竹邑侯となったという沈保にしろ沈平にしろ、あるいは沈遂・沈倧・沈遵にしろ、秦漢の史料には見出すことができない。ちなみに竹邑侯は後漢になってはじめて見ることのできる諸侯名だが、劉氏の国である。